3月 10, 2008

火祭り

山兄Sから1通のメールが写真つきで送られてきた。

P1000094

中身は甥っ子(兄)が入っていたらしい。
・・・おいおい、受験生がこの時期にそんなことしてていいのか?(笑

なんにも聞かされていなかったが、山古志では昨日火祭りが行われたらしい。
引っ張り出されたのか、なんかのからみで手伝わされたか。

そういや、おいらもよく手伝わされたっけ。
火祭りを始めたのはまだ高校生で、その当時は放送とかの手伝いをしていた。
(やらされていた、というのが本当のところだが放送関連は親父よりおいらのほうが得意だった(笑)
実家に兄貴たちが戻ってからはあまり行くことはなかったが、忙しい時には手伝いをしに帰ってたっけ。
(そういえば、そのときに前乗ってたハイエースをお釈迦にしたんだよなぁ。
あの時は借金つくりに帰ったようなもんだったな・・・ orz)

山古志ふぁん倶楽部のほうに写真が載っていたので、見てみると山には雪があるのに駐車場には雪がない。
昔はこんなことなかったのに。
やっぱり温暖化のせいなのかなぁ。
そしたら雪祭りもできなくなってしまうのかなぁ。

でも、雪が少なかったら山古志はわりと住みやすい所かも。
長岡駅くらいなら、仮設のときよりもよっぽど近い。
自然も多いし、季節ごとにいろいろ採れるし。
でも温暖化は大変だし・・・。

とにかくこれからも火祭りが変わらずにできるといいな。
来年は暇を作って行くようにしよ。
P1000095

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月 24, 2007

今年のクリスマス

3年前。

地震後に被災した際に、このHPでクリスマスケーキを配ることを企画しました。
無茶かと思った企画でしたが、いろいろなところからご協力をいただき、実現することができました。
いろいろと大変でしたが、子供たちやその家族たちにはとても喜んでいただけました。

そして今年。

23日に帰村式が行われました。
まだ、地元に戻ることができない人たちもいますが、だいぶ落ち着いてきたようです。

そしていままで計3回協力してきたクリスマス会も、ようやく従来どおり、地元の青年会によって行われたそうです。
今年も子供たちの笑顔であふれていることでしょう。
地元の人たちだけで実現できる状況になった今、皆さんと行ってきた企画もそのお役目を果たしたと思っています。

地元の人たちからも、あのときのお礼をご協力いただいた人たちに改めて伝えてほしいといわれました。
ご協力していただいた皆様、そして数回にわたってプレゼントの配布に協力していただいた明徳ボランティアのメンバーのみなさまに心からお礼申し上げます。

ありがとうございました。
皆様のご協力なしでは実現できませんでした。
あのときのことは、地元の人たちにも、皆さんにとっても大事な宝物になったと思います。
本当にありがとうございました。

P.S ボラメンバーへ。

機会があれば、またみんなで集まって飲もうよ。
朝までがっつりと、ね。(^^

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 03, 2007

海を抱いたビー玉

今日は本の紹介です。
この前、なぜか実家からこんな本が送られてきました。

海を抱いたビー玉

リストアされた一台の古びたバス。
不思議な縁に導かれるようにして、いろいろな人たちとふれあいっていきます。
そして・・・
実際にあった出来事をもとに書かれた心温まるお話です。

で、なぜこの本がおいらのところに贈られてきたのか?
なんでかっていうとですね・・・。

うちの兄貴の家族がモデルなんですよ、これが。(照
まぁ、実際にそのまま実名ではありませんが、

五木茂之 → 山兄S
五木洋子 → 山姉
五木裕也 → 甥兄
五木達也 → 甥弟

となっています。いやぁ、知っている人にはとてもわかりやすい。(笑

で、なんでうちの家族がモデルになったのか?ということですが。
どうも話を聞いてみたところ、本の中にも書かれている湯沢でのイベントで、作者の方と、うちの兄貴が話をしたことがきっかけとなっているらしいとのこと。

それで地震の時の様子などを聞かれたときに、
「うちの弟(→おいら)がブログでまとめているので、そっちも見てみてください。」
といったらしいんです。
まさか、このHPで書いてきたことが参考になったとは・・・。
いやぁ、はずかしい。

本を読んでみると、なるほどあのときの様子がよく書かれていました。
というか、やっぱり表現がうまいです。
さすがはプロ。
本を読んだ後に自分のまとめたのを読むと、がくーっときますね。(^^;

事実とは異なるものの、かなりの部分が事実をもとにして書かれていることがわかります。
中にはいくつかの出来事が混ざっているのもありました。
周りの環境や事実を知っていると、
「あー、あの人とあの人のことが混ざっているのか。」
とかいうのもわかります。
これは地元でうちと関係ある人たちじゃないとわからないかもしれませんけどね。

よろしかったら、この本と、地震の時のことをまとめたこちらを読み比べてみてください。
かなり忠実に書かれていることがわかると思いますよ。

ちなみに。

この本の一部が震災の義援金に充てられるそうです。
ぜひ買ってくださいませませ。(^^

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 26, 2007

「ユイナシビト」上演中

えーっと大分前ですけど、こんなことを書いていました。

で、その中で「ユイナシビト」というミュージカルのことを書いていたんですけど、今、上演中だそうです。
(詳しくはこちらをどうぞ。)

あのときは、予告編ということでちょろっとしかやりませんでしたが、それがいったいどのようになっているのか?
ちょっと楽しみです。

東京公演が、この週末までやっているそうなので、ちょっと見に行って来る予定です。
場所は東京芸術劇場小ホール2。
お近くの方は是非行って見てください。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

8月 24, 2007

マリと子犬の物語が漫画に

帰り道によったコンビニで。
いつものごとく週刊誌買っとこ、と雑誌コーナーに目を向けると、
「マリと子犬の物語」
というタイトルが。
少年サンデーの表紙になってました。
(このリンク、来週号が出るまでだとおもいます。)

…あらま。びっくり。
映画もできるけど、漫画にも進出したのか…
なんだかに全国的に有名になりつつあるような…
漫画の方の感想は漫画の短期連載が終わった後に。

ちなみにこんな動画もみつけました。
もらわれた子犬の方はおいらも見たことがあります。
今も元気に過ごしているそうです。
(その後の経過などはこちらをどうぞ。)

でも、映画の予告を見ると、山古志ってきれいなところだなぁ、と思います。
うちの家族とも話しましたが、TVとかに写るとすごくきれいに見えます。
(いや、ほんとにきれいなんですけどね。住んでる人にはただの見慣れた風景だったりするんで。)
いやはや、カメラマンの人たちの腕はたいしたものです。

あ、ちなみに。
映画の方にエキストラとしてちょこっとだけ参加しました。
写っているかどうかはわかりませんけど。(^^;

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1月 03, 2007

あけましておめでとうございまする

あけましておめでとうございます。
今年も’たけぱんだな日々’をよろしくお願いいたします。

いろいろなところからの支援があったおかげで家族皆元気に新年を迎えることが出来ました。
支援していただいた皆様方に感謝しております。ありがとうざいました。

今年は休みにはいってから早々に山古志の実家に帰り、家でのほほんとすごしております。
山古志の方はまだ雪も少なく、雪堀もしていません。
このまま雪がふらんといいがぁけどねぇ、と皆言っていますがどうなることやら・・・。
ちなみにおいらが帰った日は結構降っていて、翌朝はこんなんなってました。

P1000008

まぁ、この程度ならこっちのほうでは普通なんで、車移動するのがめんどくせぇなぁと思ったりするくらいですけど。
今年は小雪だといいなぁ。

さて。

とりあえず年始めなんで目標を決めました。
最近運動していないんで、体がなまっているんだよなぁ・・・。
つーことで、今年こそはレース復帰して年3回以上出場を!
んでもって体もかっちょよく引きしめる!
とか思ってます。
仕事ちゃっちゃと片してがんがん走りこむべ!

ってな感じでがんばっていくべかな。(^^

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月 20, 2006

くりすますぅ

今年のサンタはちょうど日曜日。
夕方4時から配布開始です。

村のほうにも戻っている世帯も多く、3年ぶりに村で過ごす家族もいます。
こんな風に書くと「もう元に戻ったんだ」と思われる方もいると思われますが、復旧していないところは目処も立っていない状況です。

でもやっぱり少しずつは進んでいます。
前よりよくしていこうという活動もはじまっているようですし。
やっぱり前向きに行こうと考えていきたいもんです。

つーことで今年のサンタも楽しむぞぉ!
まってろよ!ちびっこたち。
押しかけサンタがまたいくぞ!
「わりぃ子はいねがぁ!」
っていいながら、包丁持っていくからな!
いい子でまってんだぞ!

・・・ん?なんかちがう?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月 08, 2006

今年もさんたやるよ

久しぶりの更新です。
だって、ココログがメンテ中だったから。(忙しかったのもあるけどね。)
で、告知。

今年もやるよーっ!サンタクロースっ!

この前、山兄Sより連絡がありました。
決行日は24日。
今年は仮設と村の中の2箇所です。

今年も参加可能なボラの皆様方、ご連絡お待ちしとります。

24日が日曜なので、わりと早い時間から配り始めるそうです。
土曜日入りの人が多いのかな?
泊まるとこは・・・まぁなんとかします。心配しなくてもいいですよ。

人数を確認しときたいので、15日までに連絡くださいまし。
それでわ~

| | コメント (4) | トラックバック (0)

11月 06, 2006

家のなくなった風景

4日の夜。NHKの@ヒューマンという番組で山古志の特集をやってました。
そういえば、前もうちの甥っ子(弟)が特集されてたっけ。
この日は久しぶりに友人のうらぱんだが飲もうってんでちょうど家に遊びに来ていて、ちょうどテレビをつけたときにこの放送をやっていました。
うらぱんだも以前やったクリスマス企画に参加してくれていたんで、二人で思わず見入ってしまいました。

特集では学校再開の様子が写っていました。
「そうそう、学校再開したんよ。」
などとしゃべっていると、甥っ子(弟)が出てました。
「あ。またでてる。(笑)」
そうそう、以前もこの番組で特集されていて、このときのコカリナの演奏会にはおいらも行きました。
でも、身内がテレビに出てるとなーんか照れくさいです。(笑)

いやぁ、学校新しくなったねぇ。
通いの子もいるんかぁ。大変だなぁ。
・・・と、ここまではよかったんですが。

!? 実家が写ってるっ!
つか、うちの家族皆テレビにでてるっ!
引越しの荷物入ってるな・・・。ああ、やっと倉庫から移動したのか・・・。
うわっ、茶の間が片付いてるっ!めずらしいっ!(笑)
え~っ、しかも兄貴が電話しゃべってるよぉ~

うわぁ~こっぱずかしぃ~

とまぁ、真剣な内容にかかわらず部屋での恥ずかしさでたうちまわっていました。
・・・って別においらが恥ずかしがる話ではないんですけどねぇ・・・(^^;

とはいえ。
兄貴のうちが取り壊されたところを見たときは、やっぱりちょっと思うところがありました。
片付けにはいったものの、取り壊された跡をみるのは初めて。
取り壊した家はもともとはお袋の実家。
そこの家の人が引っ越したので、家の兄貴夫婦が入っていました。

昔、お袋の実家の人がまだ住んでいた頃、雪が降り始める年末に新巻シャケ持っていくのがおいらたち兄弟の小さい頃の恒例行事でした。
そのころは囲炉裏があって、そこでじいちゃんがこんにゃくとか煮てたっけ。
秋には栗とか拾いに行って、焼いてもらったりしたな。
あと、兄貴たちといっしょにPC-9801をいじらせてもらいにいったっけ。
夜中までかかってプログラム打ち込んで絵を表示させて喜んでたなぁ。
今思えば、プログラマっていう職業に就いたのはそこが原点かもしれないな。
・・・そんな思い出が詰まった家はもうありません。

そういえば10月23日に放送していたNHKの番組の最後のほうに、山古志の風景を写している場面でほんの一瞬、去年取り壊した実家が屋根が写っていました。
ちょうど家に下る坂のところから撮った映像でした。
実家に帰るときに見ていた風景。
以前はその坂から家の屋根が見えると帰ったなぁって感じがしてました。
正直、春に行ったときに家がなくなっているのをみたときはただ漠然と
「あぁ、なくなっちまったんだな・・・」
という感じであまり実感がなかったのですが・・・。

映像の中だけに残っている我が家。
その家も、もうありません。
昔見ていた風景を見たときに思わず泣きそうになりました。

でもうちの家族は恵まれているほうです。
今年の冬も仮設で過ごす方が多いと言っていました。
テレビでも言っていましたが、復興はまだまだ先。
できるだけ早い復興をただただ祈るばかりです。

あと、体験記の更新はもうしばらくお待ちください。
仕事が一区切りしたんでこれから編集します・・・

| | コメント (3) | トラックバック (0)

10月 23, 2006

2年経過しました。

中越地震から今日で2年経ちました。
・・・この前は間違えてしまいました。3年目に突入ということなんです。ごめんなさい。

復興は進んでいる地域もあれば、なかなか進まない地域もあり、大変なようです。
実際、「もう落ち着いたの?」とよく聞かれますが、村全体ではまだまだです。
これからまた冬がきます。
雪に埋もれてしまえば工事もままなりません。

今もまだ多くの人が仮設にいます。
でも、いろいろな面での不安もあるようです。
先ほど、報道ステーションでも「仮設ホームシック」なることをいってました。
仮設では隣近所が近くにいたので、いつでも顔をあわせることができましたが、村のほうではまだ近所の人たちが帰っておらず、村に帰ったもののなんだか寂しいという現象が起きているそうです。
でも、学校も再開されるし、村の方に戻る方もたくさんいます。
うちの甥っ子たちは、「やっぱり山ん方が落ち着くなぁ」と以前言っていました。
村外に出てしまった私がいうのもおこがましいですが、やっぱり多くの人に戻ってもらって「やっぱり戻ってよかったなぁ」と言う声をたくさん聞ける日がくることを祈るばかりです。

あと、体験談のほうにファイルをUPしました。
興味があれば読んでみてください。
まだ続きはありますが、おいおいUPしていきます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

10月 22, 2006

中越地震の時の様子をUPしました。

ようやく公開します。
左の”中越地震 体験記”をクリックしてください。

・・・でもまだ、未完成なんですよ。
仕事も忙しくて、なかなか編集できなかったのと、HPで公開したかったんですが、どうもうまくいかなくて・・・。
しかたないんで、いろいろと模索して結局PDF形式になってしまいました。(泣

もうちょっとがんばってみますが、とりあえず、ということで。
だれか、HTML教えてくれぇ~。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 19, 2006

もうすぐ3年

新潟中越地震から3年経とうとしています。

実家のほうもようやく落ち着きを取り戻しつつあります。
被害が大きかったところはまだまだ先のようですが、とりあえずは少しずつ進んでいます。

ちょうど3年ということもあり、いまちょっと今までのことを再度まとめなおしています。
以前、ブログのほうでまとめてみたのですが、時系列が逆だったり、細かい部分までまとめきれていなかったので、読みづらい状態でした。
書いている内容自体は再々掲載となってしまいますが結構加筆してます。
盛り込めるところは目一杯盛り込みました。
物語風にしたりしてますが、誇張したり事実と異なることは書かないようにしています。
気持ちを表現するところはちょっとあれかもしれませんが、そのときの素直な気持ちをそのまま書いています。
一部の表現では・・・だろうとか、・・・と思うという部分は予想を含んでいます。
ただ、私一人の視点で見ている箇所もあるので、間違いもあるかもしれません。
気づいた人がいれば、連絡してください。
(文章の力不足なのは勘弁してくださいね・・・。)

今週末くらいにはUPする予定です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

9月 20, 2006

あっちゃんの結婚式

2006年09月18日。
私の同級生でもある”闘牛博士”ことあっちゃんの結婚式にお呼ばれしてしてきました。
おいらとは幼稚園、小学校、中学校、高校は違ったものの同じバスで通った仲間。
いわゆる幼馴染というやつですな。
そんなわけで、式にお呼ばれされました。

式の会場はなんと虫亀闘牛場。
「式は闘牛場でやるからよ。」
と以前いっておりましたが、まさか本当にやるとは・・・
それを了承したお嫁さんはえらい、と同級生みんなして話しておりました。

それにしても取材陣のすごいこと。
話を聞くと全国区でのニュース放送に出たんだとか。
個人の結婚式がここまで大きく取りざたされることはめったにないのに・・・。
あっちゃんも好きだからなぁ。こういうの。
闘牛のニュースのときはほぼ毎回、喉自慢、タイムショックとよくTVに映っております。
今回の式の様子のビデオには困らないことでしょう。(笑)

んでもって式の様子は、アルバムの方を見てくださいませ。
結婚式も披露宴もほんとによかったですよ。

地元でこういうお祝い事があるというのはやっぱりうれしいです。
これからもこういうおめでたいことがいっぱいあってほしいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 19, 2006

実家でのお盆

久しぶりの更新です。(^^;
ちょいと長文です。

13日から18日まで実家(旧山古志村虫亀)で過ごしてきました。
実に震災後から2年ぶりです。
土砂で塞がれた道もだいぶ補修され、山の斜面のあちこちで補強工事がされています。
うちの部落では改装や新築が進み、戻れる世帯は結構戻っているようです。

実家のほうは内装部分の改装がほぼ終わり、なんとか住めるようになりました。
電気、水はなんとかなったものの、ガスコンロがわりのIHがまだ使用できません・・・。
外装は大工さんが忙しくて今年中は無理だそうな。
とはいえ、人が生活するうえでの設備は整っているので住むにはあんまり困りません。
うちも早ければ10月くらいには戻りたいと言っていました。

さて。
久しぶりの実家でのお盆。
いろいろと毎日忙しく過ごしてきました。

13日。
朝一で埼玉を出発。

ものの見事に渋滞にはまり、お昼近くにようやく到着。
実家に着くと親父がお墓参りの用意をしていました。
お昼は準備しといた燻製づくり。

今回はささみの燻製とベーコンにチャレンジ。
肉は前もって塩漬けしたもの。
ささみのほうは・・・・はっきり言って失敗。
塩につけすぎたせいでめっさ塩辛い。
ベーコンのほうもちょっと塩がきついかなぁと思っていましたが、落ち着けばなんとかなるかな?
もっと鍛錬が必要ですな。

んで。
夕方になってお墓参りへ。
今の家はお墓のすぐ近く(隣と数十メートルはなれたとこ)なので、とても楽チン。
2年ぶりの恒例行事は厳かで心静かな雰囲気の中で行われました。
家族全員で実家のお墓と、親戚のお墓をお参りして終了。

やっぱりいいもんです。
家族総出で何かやるっていうのはなかなかないですからね。
こういうのってやっぱ大事だな、なんて思ってみたりしました。

その後、いつものごとく飲んでいたわけですが、昼間作ったささみを兄貴たちは、
「こんげしょっけーが、食わんねーて。」
(こんなにしょっぱいの、くえないって。)
などとわめいていた割にはほとんど平らげていました。
しかも、それつかって勝手にスープとか作ってるし。
・・・文句言うなら食うなっつーの。

14日。
祭りの準備。

いつもであれば盆踊り当日にやるのですが、なにせ今回はイベントが多いので前日に準備することになったんだとか。
おいらは旧虫亀小学校での盆踊り用のちょうちん準備をやってきました。
うちの場合、実家が電気屋っつーことで、電線這わせたり、電源の準備したり、電球の用意をしたり、放送設備を準備したりと何かと急がしい。
毎度のことだが、ケーブルが足りないやら、あっちに投光機つけてくれやら、電源こっちにもほしいやらとてんやわんや。
毎度のことながら、他の人たちが終わっても最後まで残ってやってきました。

んで、夕方はお泊りに来るボラのメンバーをお迎え。
シャワーだけ浴びて、車で長岡駅までいってきました。
この日はバーベキューしてたらふく食いまくりました。(^^

15日。
盆踊り当日。

とりあえずのんびり起きて早速仕事。(;;
闘牛場では綱っ子(紐をつけたまま行う闘牛)をやっていたようですが、まぁとりたてて見に行くこともないな。本場所やるなら久しぶりに見に行きたいけど。
おいらがもってきた本来のお仕事をやるものの、いまいち進まない。
やっぱりインターネットのつながっていない環境ってのは、仕事柄つらい。
仕事持て来れるのはいいんでけど、便利なんだか、不便なんだか。

とりあえずお昼ちかくになったので、みんなの昼飯を作って自分は早めのお昼を食べる。
・・・そういえば、なぜか実家に帰ると飯を作らされる。
お袋はおいらが帰ると作ろうとしない。
まぁいいけどさ。好きだしね。

昼飯食ったら仕事する気も失せたので(笑)、気分を変えるつもりでボラのメンバーを誘って金倉山へ。
途中、東洋大学から来たボランティアの子達がぶらぶらしていたんでごーいんにつれてっちまいました。(^^;
去年の夏来たときには、全然手付かずで「あと2年くらいかかんだろうなぁ」と思っていたのですが、道は山頂まで通じていました。
山のほうは後回しにされていると思ったので、ちょっとびっくり。
また、山から見る風景もだいぶいろいろなところに手が入っていました。
復興が進んでいるのがわかります。
(あとで写真アップします。)

4時には体育館での催し物が開催されました。
子供たちのコカリナと、西東京から来てくれた方々のミュージカル、あと地元の人たちの神楽の3つ。

子供たちのコカリナ(オカリナではない。笛みたいの)で3曲ほど演奏しました。
うちの甥っ子も挨拶していました。
練習ではしどろもどろだったのが、本番ではばっちりと決まっていました。
うん。えらいえらい。
最後の「ふるさと」は、会場の全員で歌っていました。
・・・この曲、みんな思うところがあったんだろうなぁ。
おばあちゃんやおじいちゃんたちが感慨深げに歌っていました。

ミュージカルの方は、震災のときの様子を再現した「ユイナシビト」という劇。(の予告編)
正直いうと「どーんなんだろ?」という思いで見ていたものの、見ているうちにうん、そうそうとかそうだったねぇ、というふうに引きずり込まれていました。
うちの家族も
「ミュージカルなんてしゃれたがーで地震の時の様子なんてできるがーかと思ったがーけど、いやはや、よーできてたねっか。」
(ミュージカルなんてしゃれたもので地震のときの様子なんてできるもんかと思ったんだけど、いやはや、よくできてたわ。)
「いやー、よう調べてたねっか。あのヘリが飛んでくるとこで「なんか水でも食いもんでもいいっけ落としてけいや!」ってのはほんにそのとうりだったっけんねぇ。」
(いやーよく調べてたわ。あのヘリが飛んでくるとこで「なにか水でも食いもんでもいいから落としていけっての!」ってのは本当にそのとうりだったからねぇ。)
と、みんなほめていました。
あと、「にーな食いてぇ」はツボにはまりました。
(注:”にーな”ってのは、菜っ葉の漬物を煮た食べ物。語源は”煮菜”か?家によっては”なーに”ともいう。うち豆(大豆を木槌でたたいてつぶしたもの)とか鷹の爪とかと一緒に煮たものもあってとってもおいしい。おいらも好き(笑))
地元の方言もよく取り入れていて、不自然さもなかったし。ちょっとびっくり。
でも、おいらとしては、「そいが」とか「なじら?」が入ってなかったのが残念。
他にもいろいろあるけれど、ちょっと難しいかな?
今度は是非取り入れてほしいもんです。
(ミュージカルをやってくれた方々、もしこれを見ていたら連絡いただけますか?できれば、写真を載せたいのですが・・・。)

最後に神楽ですが・・・・えーっと見ておりません。
だって、電気引き回してくれって言われて仕事してましたから。(泣

んでその後は、ご飯を食べて百八灯へ。
部落の上の方にある鎮守様への階段にちょうちんがぶら下がった中を歩いてのお参り。
これも恒例、夏の風物詩です。
風情があっていいもんです。

S060815_

その後はいよいよ盆踊り。
案の定、誰もいません。(笑
とりあえず、おいらの同級生が太鼓をたたき始ていました。
叩いていれば集まってくるんですけどね。いつものことですが。

うちの盆踊りは特に出店が出るわけでもなく、なにか特にあるわけでもありません。
太鼓とじーさま方の囃子のみでみんなで踊るという、いたってシンプルなもの。
おいらもみんなに混じって太鼓をたたいてきました。
ガキの頃からやっていたんで、体が覚えています。
久しぶりに気持ちいい汗をかきながら目いっぱい叩いてきました。
おかげで親指の皮がめくれてしまいましたけどね。(泣


下の写真はそのときの様子。(見づらいです。はい。すいません。)

S060815__1

今年はずいぶんと人が集まりました。
他の地域から来た人や、久しぶりにこっちに来た人たちがいたおかげだと思いますが、久しぶりに踊りの輪が2重になっていました。
活気もあって、とてもいい盆踊りでした。

16日以降は、甥っ子たちと映画を見に行ったり、愛知からきた姉貴夫婦たちと酒飲みながら話したりと、いろいろとやってきました。
しっかし、今回の休みは長かったんですが、まるで休んだ気がしません。
実家帰ってもなんだかんだで働きづめだったし・・・。
でもまぁ、とても充実した盆休みでした。

んで。
今回の休みで感じたんですけど。

やっぱり村に入ってきたときに、人がいるっていうだけですごく雰囲気が変わります。
地震直後に入ったときの村は本当に死んだような状態でしたが、今は活気があります。
まだ、帰れない部落のことを思うと、うーん、と考えちゃいますがこうして少しずつでも帰っていけるのであれば、そっちのほうがいいのかな?と思ってます。
やっぱり人がいないとやっぱりだめだなぁって。
2年経って、ようやく戻り始めた地域、まだ先が見通せない地域。
それぞれ復興の感じ方も違うと思います。
今回の盆踊りも当初賛否両論あったそうですが、今回はやってよかったと思います。
こんな風に活気があるところもあるんだよっていうのがどんどん伝わっていって、村全体が活気付いてほしいものです。

今度帰るのは9月中旬。
地元の同級生の結婚式です。
で、その結婚式っていうのを村でやるんですが、これまたびっくりもんなんで・・・
次回はそのときの様子を伝えられれば、と思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 08, 2006

今年の夏

この前帰ったときに今年のお盆は地元で迎えられそうだ、と家族が話していました。
地震から2年が経過して、やっとこです。

道路もようやくつながり、村で生活している人たちも多くなりました。(虫亀地区)
今年のお盆はイベントが目白押し。
なんかおお騒ぎです。
13日はお墓参り、14日は祭りの準備、15日に盆踊り、16日がお片づけ。
ほかにも学校の片付けや道普請、復興記念行事など盛りだくさん。
それに、復興後初めてのお盆なので、帰郷してくる人や親戚たちも多いとか。
村の人たちは「これじゃ、休む暇がねーてー」と言っておりました。

でも久しぶりの盆踊り。久しぶりのお祭りです。
っていっても田舎なんで、特に出店が出たりするわけでもなく、昼間に闘牛やったり、盆踊りやったりとつつましいもんですけどね。

ようやく生活の基盤が出来つつある村の様子をたくさんの人に見ていただきたい・・・とは思うのですが。
ちょっと、注意が必要です。

・バスなど公共の交通手段はまだありません。
・自前の車などでも交通規制のため、許可証もってないと入れない可能性があります。
・また、入れたとしても7時から22時までの規制があります。
(15日は特別処置がとられるという話もありますが・・・いまんとこ、はっきりしてません。)

・宿泊施設はまだありません。
・今回の片付けのボランティアや招待者には公共施設を宿泊場所として貸してくれるそうですが、すでにいっぱいだそうです。

ちなみにおいらは仕事でいつ帰れるか分かりません。
13日には帰りたい・・・と思っているのですが、正直いって難しそう。
帰れば帰ったで、たぶん手伝いが山のようにあるだろうなぁ。
(実家はまだ、改装中・・・祭りの準備もあるし・・・)
なんか、仕事しに帰るようなもんだな。(^^;

でもまぁ、被災後、初めて村にお泊りできるわけですから、楽しみ楽しみ。
前はこれが普通だったのにな・・・ちょっと変な感じ。
やっぱりいろんなことが変わってしまったという実感があります。

P.S
これをみている明徳ボラの皆様で村に入りたいと思っている方、メールください。
一応考えてはいますが、あんまりあてになんないかもしれません。(^^;

| | コメント (0) | トラックバック (0)

7月 18, 2006

片付け

この連休は、実家(山兄S)の家の片付けに行ってきました。
地震からもうすぐ2年経過しようとしていますが、まだ片付いてません。
というか、家のことをほとんどやってないのは、うちの部落では山兄んとこだけだそうな。
まぁ、仕事のほうが忙しくて、自分ちのことは後回しにしてきた結果なんですが。

でも、さすがに今年中に取り壊さないといつまでたっても進みそうもないということで、片付けに行ってきました。
少しずつはやっていたそうなんで、分別して燃やせるものをガンガン燃やしてきました。

こういうときってなかなか進まないもんなんですよね。
当人たちはいろいろと思い出にひたったり、なつかしんだり。
甥っ子たちは本を読み返して作業進まないし。(笑)

そんな中、がしがしと物を引っ張り出し、「これどーすんの?捨てちゃうよん。」「んなもんいらんだろ。捨てちゃうよん。」といってちゃかちゃか作業してきました。
当人たちとは違って、こっちにゃ未練もなんもありません。
とにかく早く終わらせて、かえって風呂入ってビールが飲みたいわけだし。(笑)
そんな感じで、ひたすら物を引っ張り出しては、燃えるものを燃やすという作業に明け暮れてきました。
・・・ほしいものはちゃっかりと抑えてきましたけどね。(^^;

んで、実家のほう(買ったほうの家)はただいま改装の真っ只中。
壁の張り替えが着々と進んでいます。
とりあえず、今年のお盆は実家で過ごせそうです。
ほんとの実家は取り壊したんで、新しい実家(近所にあった知り合いの家を買い取った)ほうでの初めての夏。
ちょっと楽しみです。

村の方も新しい家を建てたり、改装工事が進んだりしています。
道路も急ピッチで復旧が進んでいます。
この夏には仮設を出ようというところもあります。

その一方で、戻りたいけど戻れない、復旧が思いのほか進まないなどの問題もいまだに多く残っています。
10年経っても片付かないこともある、と阪神大震災にあった知り合いの人は言っていました。
でも。
着実に復旧は進んでいます。復興にはまだ遠いかもしれませんけど。

夏にはなんか大きなイベントをやるみたいです。
そのときはゲートを開放し、県外からの人たちも受け入れるとかなんとか・・・。
まだ確定ではないみたいですが、実現してほしいものです。
このページをみている人にも来ていただきたいですね。

最後におまけ。

おととしの大雪の時の様子をずーっと前に写真を出しましたが、どの程度の雪が降ったかわからなかったと思います。
ちょうど、ほぼ同じ位置で写真を撮ってきたので見比べてみてください。(クリックするとちょっとだけ大きくなります。)

こちらがおとといの様子。
Tuyudoki

んで、こっちがおととしの大雪の時の様子。
Ohyuki

ね?ちょっとすごいっしょ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3月 26, 2006

特集されてたTVをみた

・・・今、TV見ました。
家族全員大笑い。(爆)
まさか、震災後の特集組まれて、その対象になるなんて思ってもいませんでした。

(放送時間は短いですが。(笑))

いやー、身内がでてるってのもなんだか照れくさいもんです。
当の主人公である甥っ子は疲れのためとなりで爆睡してますが。(笑)
今日は30秒くらいで寝付いたとか・・・

んでもって、うちの家族の反応ですが。

「片付けてねーとこしか出てねー」
(一番片付いてないとこがうつってるし。しょったれげだ。笑)
「芝居かかってるー」
(山兄Sは演技していたといっていた。芋役者っ!)
「いやいや、村以外の仕事もしてるって」
(そうでなきゃ食っていけませんて・・・)
「うわっ、さりげなく、じさま(じーちゃん)とばさま(ばーちゃん)がうつってる!」
(身内か地元民じゃないとわかんないよなぁ・・・これ)

などなど。

たしかに全て真実なんですが、こんなに仰々しく編集されているとは・・・
んー、うちの場合はもうちょっと落ち着いているんだけどなぁ。(^^;
取材を受けている当人たちがそう言っているのだからまちがいないでしょ。

今回の取材は計7日間。
移っていたのは実質6分弱。
「取材ってほんと、たいへんなんだねぇ。」
としみじみつぶやいておりました。

ほんと、N○Kさんも大変ですね。
サンタの時の取材のときも、こちらの要望として「勝手に取材しないでね。おいらの名前と素顔ださんでね。素性あかさんといてね。」という要望に見事に答えてくれていてくれました。
今回の特集もよく編集できてるもんだ、とさっきからしきりに関心しています。
まぁ、ニュースの時と違って多少演出が入ってた気もしないでもないですが。(笑)

ただですね。

甥っ子がいっているのは、台詞を決めてたわけでもなく((^^;)こんな風に言ってほしいとかっていう指示があったわけでもなく((^^;;)、本当の素だったようです。
「なにか決めておいたんですか?」
と取材されていた人達に兄貴は言われたそうな。
(つか、そんな事ができるほど、うちの甥っ子は器用じゃない(笑))

そんな中。よく言えたなぁと思ったのが、
「家族が遅くまで働いていてありがとうっていいたい」
とかいっているところで、兄貴夫婦はえらく感激しておりました。
(まぁ、確かに親に面とむかって言えるセリフじゃないわな・・・。これを見ていた兄貴夫婦は「これはやられたなー」といってました。こんな取材があったのはしらなかったみたい。N○KのHさん、Good job!)

でも、これはうちの甥っ子だけじゃなく、他の子供たちもいっしょだと思いました。
前にも書いた気がしますけど、ほんと、子供達も気を使っているんですよね。
これ、避難所にいたときの自分の話なんですけど。

みんなカリカリしてて。
自分もボランティアやってて余裕なくて。
周りにいろいろ言いたくても言えなくて。
だから身内に対してはちょっとしたことで怒鳴ったりして。

そんな様子をみてた甥っ子が、あとでこっそりと
「ごめんね。おとーさんも疲れているみたい。あんまりいわないで。ごめんね。」
と言ったのを思い出しました。
(こんなのがあったから、クリスマスイベントやろうって思ったんですけどね。)

こうやってたまに報道されるっていうのは、実際にこんな状況になるといろいろと考えちゃいますね。
当事者でなければ、他のことに興味がいってしまいますから。
事実、関西の方の地震のときとかは自分もそうでした。
でも、神戸や大阪の知り合いのところに行ったとき、10年以上経っても解決していない事があったりするというのを知りました。
やっぱり当事者になってみないとわからないことがたくさんあるんですよね。

報道とかに対して、当然のことながら、ほっといてほしいという人もいます。

静かにさせてくれ。
もう、ほっといてくれ。

というのも、実際わかります。取材で追い掛け回されて疲れている人もみてますから。

大きな出来事があっても、月日が経って世間から忘れられてしまいます。
でも、その当事者たちはなんにも解決していない現状があるのも事実。

「今、こんな状況なんです!まだまだこれからなんですっ!」

というのがほんとのところなんです。
実際、ほんとにいろいろな問題抱えています。
帰りたいけど施設に入ったうちの親戚、村に帰れるかもわからない集落の人達、今後の見通しがなかなか見えない復興の状況・・・。
今回、たまたまうちの家族なんかがTVに出ましたが、うちには家を継ぐ兄貴たちがいて、にぎやかな子供達もいる。そして、地元以外に頼る事ができる身内もいる。
今回のTVで出ていたうちの家族は、ほんとにものすごく恵まれているほうなんです。
うちなんかより、現実はもっと厳しいところがたくさんあるんです。

でも。

いろんな現状をメディアで発信してもらうというのは、実際に被災した人達に聞いてみたらありがたいといっていました。
実際にはいろいろな利害なんかも絡んでくることもいっぱいあると思います。
でも、だれかしらに訴えたい、興味をもってほしいと思うのは自然なことだと思ってるんで。

こうやって、こんなこと書いているってことは、自分もそうなんだろうな。きっと。
なんか、長文になっちゃいました。ごめんなさい。

最後にもうちょっとだけ。

このTVのVTR、DVDにとっとくと兄貴は記念にとっておくといってました。
んでもって、甥っ子が結婚する時に流すんだそうな。(笑)
さて、そんときにはどんな様子になってるんだろうな・・・

| | コメント (2) | トラックバック (0)

3月 24, 2006

取材

ひさしぶりの山古志ネタです。
予定だと明日の23:28からNHKの「つながるテレビ@ヒューマン」で子供たちのコンサート?といっしょに今の様子などを伝えるそうです。
どうもうちの甥っ子が出るらしく、いろいろと取材を受けて大変だったとか・・・。
今後どうしていくのか、といったインタビューもあったといっていっていました。
興味がある方はどうぞ。

ちなみに今日か明日、おいらも実家に帰ります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月 27, 2005

押しかけサンタ!

24日、予定通りサンタさんしてきました。
今年は青年会主催のため、運営はそっちにおまかせ。
ボラの人達は子どもの遊び相手に活躍してもらいました。

23日に現地入りして、最初の到着組と晩御飯食べて、集会場でお泊り。
なんだかんだいって、結局、朝近くまで飲んでました。(笑)
翌日、子供用の上映会の準備をした後、ボラの皆さんは子どもたちの遊び相手に。
おいらは、除雪の手伝いとかこまごました用事とかあったんで、そっちでぱたぱたしてました。

んで、午後3時頃からいよいよ準備開始。
ケーキをもってきたり、プレゼントの確認をしたり。
今年は昨年と異なり、プレゼントは各家庭で用意したものを配ることになっていました。
というか、今まではこの形式だったので、本来の姿に戻った、というのがほんとのところ。

皆でサンタ服に着替えた後、円陣を組んで気合を入れて出発!
外の様子は、ホワイトすぎるクリスマス。
雪がこれでもかといわんばかりにどっかどっかと降っておりました。

最初は雪の中で対象の世帯の場所がよく分からずおろおろとしてしまいましたが、なんとか見つけ出して配り始めました。

さて。

今年のクリスマスは去年とはここからが大きく異なります。
そぉーっと玄関に近づき、靴を脱ぎます。
そうしたら、ドアをガラッっと開け、
「メッリークリスマース!」
と言った後、づかづかと部屋の中まで上がり込み、直接子どもたちに手渡しします。
これが地元青年会曰く、押しかけサンタです。

まぁ、子どもたちの反応のおもろいこと。
ささっとお母さんの後ろに引っ込む子、はにかむ子、泣き出す子・・・。
お母さんたちから、「ほら、お礼を言いいなさい」といわれて、恥ずかしそうにお礼を言ってくれたり、最後まで出て来れなかったり・・・。
ある程度の年になるとあまりかわいげもない(笑)ものの、それでもやっぱり喜んでいる様子。
中でも印象的だったのは、
「あー、サンタさんだぁ。」
といってめっちゃ喜んでくれた女の子。
「いい子にしてたら、またくるよ~」
といったら、玄関先まできて
「うん、あのね、またくるんだよね、プレゼントもってきてくれるんだよね。」
と必死に訴えかけて、手を振ってくれました。
あぁ、めっさかわえぇな~(#^^#

つれさったろかいな。
プレゼント用の袋につめて。(笑)
ほんと、そんなやばいくらいかわいい。
こんなんみると、やってよかったなぁと思います。

最後においらの同級生のとこに配って終了。
初めて見たけど、めっさかわいかったなぁ。
ちょっと話もできたし、よかったよかった。

後は集会場に戻って打ち上げ。
じゃんけん大会でもりあがったり、ピーな部分のあぶないノリもあったりして、みんなで楽しくお酒を飲むことができました。

くみちゃん、とらちゃん夫妻、とろんとろん、ばねちゃん、みなちゃん、みねちゃん、らいすさん、みんな本当にありがとうっ!
ボラで集まってからもう一年経つというのに、また集まってくれたみんなに感謝っ!
これなかった人もぜひまたきてちょうだいっ!
そんでもって青年会の方々、お疲れ様でした。

次は、来年の春先とか夏の花火とかかな。
機会があったら是非きてくださいね。
また、声かけるからね~。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

12月 25, 2005

大成功!

24日、予定通りサンタさんしてきました。

泣く子あり、恥ずかしがる子あり、うれしがる子あり・・・。
いいもんです。子どもの笑顔って。
これが少しでも村の人達の活力になってもらえたらうれしい限りです。

とりあえず、今日は疲れちまったんで寝ます。
詳しい報告は、また後日にでも。

ご協力いただいたボランティアのみなさん、ありがとうございました。
また、遊びにきてくださいねー。(^^

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月 22, 2005

いよいよです

今年もやってきました、クリスマスっ!
おいらは明日の夜から現地入り。の予定。

去年に比べれば非常にのほほんとしております。
今年は現地の方々のお手伝いということなので、なーんにも準備していないから。

今年は配り方が従来どおりのいきなり家に上がってプレゼントを配るという”押しかけサンタ”(笑)なんで、中身は濃いっす。
なにはともあれ、子どもたちが喜ぶ姿をはやいとこみたいなー。

雪がちょっと(だいぶ?)心配だけど、いっちょやりますか!
んでもって楽しいひと時をみんなですごしましょうっ!!

・ぎょーむれんらく
サンタのみなさん、現地への到着予定をメールでも携帯でもいいんで連絡してください。
おねがいしまっす。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

12月 17, 2005

もうすぐクリスマス

もうすぐです。
来週はクリスマスです。

今年は、お手伝いという形での参加です。
もともとのスタイルに戻るわけですが、去年と同様に明徳ボランティアの面々がまたまた集まってくれます。
ほんとにありがとうっ!(^^

しっかしまぁ、雪がえらいことになってます。
どっちゃり降っているそうです。
今日、山兄は雪堀に行ってきたそうです。
ほっている様子をヘリがホバリングしながら撮っていったそうな。
ひょっとしたら、子どもらといっしょにTVに写っているかも。

ボラのサンタのみなさん。
防寒の用意はしっかりしてきてください。
あとふつーの靴だとめちゃくちゃ滑ります。
気をつけてください。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

11月 23, 2005

とりこわし と クリスマス

昨日、連絡がありました。
今日から実家を取り壊すとのこと。
ほんとうは帰ろうかな?とか思いましたが、やめときました。
見ておきたいような、見たくないような・・・
結局は行かなかったんですけど。

ただ、雪降る前に取り壊せてよかったと思ってます。
去年みたいにどかどか降ろうモンなら、みんな休めません。
今年の冬はちょっと落ち着けるといいんですけどね・・・。

話変わって。

クリスマス会が開催されることが決まりました。
去年は明徳にいたボランティアの人達や、まわりの援助で開催することが出来ました。
今年は地震前の頃のように山古志の青年会主催の形での開催です。
わたしもお手伝いとしてまた参加する予定です。
また、ボランティアの人達も何人かは既に参加するよーと名乗りを上げてくれています。

さて、今年もいっちょやりますか。
子どもたちの喜ぶ顔を見にいくどー!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 19, 2005

中越大地震を振り返って ~ そして、今 ~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。
今回で一応一区切りです。

--------------------------------------------
その27 そして、今

地震が発生してから一年が経った。
復興のほうも少しながらも進んでいる。
ようやく道が繋がりはじめた、といった感じだろうか。

仮設のほうでの生活にもずいぶん慣れたといっている。
一部の人達は頻繁に泊まりに帰っている人もいる。
しかし、今年は家の取り壊しまでがやっと、というところもある。

仕事が忙しくて休む暇がないと山兄たちはぼやいているが、仕事があることはいいことだ。
山の方の復旧がすすまず、今年はなにもできなかった人もいる。
鯉師の人達も、生簀の復旧を進めているようだが、まともに鯉を飼える状況にはなかなかいたっていないようだ。

子どもたちは相変わらず元気だ。
山兄Sの仮設は溜まり場になっていて、自分が帰るといつでも賑やかだ。
中学生になった甥っ子は、バレー部に入部してがんばっている。
学校を間借して部活を行っているので、週2日しか練習ができないらしい。
そんな状況の中でも、地区の大会では上位の方に入ったそうだ。
たいしたもんだ。

うちの実家は、村に戻ることにした。
今月中に実家を取り壊すことになっている。
新しい家も決まった。
今家のあるところからちょっと行ったところに、引越しして空き家になったところがある。
そこの家を買い取り、補修して入るということになった。

国から出る費用でなんとかなりそうだ、とはいっているものの実際のところは分からない。
よく、「国がxxほどの援助金を支給することになりました。」というのを聞いて、「沢山もらえていいね。」なんていう人がいる。
でも、実費でかかった分しかもらうことは出来ないし、その用途も細かく決められている。
全額もらえるわけではない。
不足分はその家で負担するわけだし、家の取り壊し、補修や建築、そのほかにも畑や田んぼの補修など・・・ほんとに多岐にわたることをひとつづつ解決していかなければならない。
それに、村から出て行く人には援助金はでないそうだ。

仮設の期限は2年ということになっているが、現実的にその間に何とかなるという人達はごく少数だろうとのこと。
特定の部落は平成20年以降にならないと、家を建てる目処もつかないところもあるそうだ。
復興までの道のりは、まだ遠そうだ。

もうすぐ冬になる。
昨年みたいな大雪にならないことを祈るばかりだ。
--------------------------------------------

とりとめもなく、去年地震があったときのこととかをまとめてみました。
そのときはなかなか書けなかったこととかも含めて、かなり突っ込んだところまで書いたつもりです。
自分自身まとめておきたいというのもあったんですが、やっぱりあんまりうまくまとまってないですね。(^^;

正直いって、こんなことまで書いていいもんかなぁ、と思ったところもあります。
ただ、あのときの状況はいろんな人達に知ってもらいたいな、というのがほんとうのところです。
報道では、実際にある出来事のごく一部しか見せてないわけですから。
といっても、ここで書いていることも全体からすればごく一部なんですけどね。

地震があったときの様子や、ボランティアの時の様子については、これで一区切りとします。
一年経ったし、書きたいことは全て書いたつもりです。

でも、復興の様子はこれからもちょこちょこと書いていくつもりです。
まだ、復興は始まったばかりですから。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

11月 18, 2005

中越大地震を振り返って ~ 報道 ~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その26 報道について

被災直後から、さまざまなメディアが現地におとずれていた。
TVや新聞、雑誌など・・・。
避難所に移った頃から、なにかことあるたびにひっきりなしにおとずれていた。

地震発生時の様子や、現在の状況を知りたいと思うのは当然のことだ。
自分も埼玉にいたときは、もっと詳しく報道してほしいのに、と思っていたし。

地元の人達も最初の頃は聞かれたことに素直に答えていた。
今までしたこともない経験を話したいと思っていた人も多かったのだろう。
自分が話を聞こうとすると、皆興奮気味に話をしてくれた。

ただ、それが長く続くとかえって負担になったようだ。
多少は慣れたらしいが、ことあるごとに「どうですか?」などと聞かれればうんざりしてくるよ、と皆いっていた。

今回のことだけではないけれど、TVなどを見ていてたまに思うことがある。
なんでもかんでも感想や今の気持ちを聞きたがるっていうのはどうなんだろう?
そんなことまで聞くなよ、みたいな質問をするレポーター達。
世の中にはそういうことを聞きたいという人も沢山いるとは思う。
けれど、それってそんなに重要なことなのか?
今回、地元での報道機関で疑問におもったことがいくつもあった。

自分が報道に期待することは、実際に起こったことや正確な情報だ。
それに必要以上に感想などを聞いてしまうと、感情移入しすぎることもあると思う。
もちろん感想を聞いたりするのが悪いことだとは思ってはいない。
ただ、度が過ぎるような聞き方をしている報道も多いと思う。

実際、現地でもいろいろとあったようだ。

崩落現場のヘリコプターでの撮影。
倒れている家にずかずかと入っていくレポーター。
やりすぎじゃないの?と思うような報道もそのころネット上でも話題になっていた。

避難所のほうでもいろいろあったと皆が教えてくれた。
こんな風に答えてもらえるとうれしいですとか、こんな風に動いてもらえますか・・・などなど。
それってやらせじゃないの?みたいなことは沢山あったといっていた。
これじゃあ、本人たちの生の声は届くはずもない。

他にも、視聴者が喜びそうな話を求めて取材しまくるようなTV局もあった。
たとえば、知り合いのおばちゃんから聞いた話。

最初非難解除があったとき、あるTV局のレポーターが、
「帰りたいですか」
と聞かれた。もちろん家に帰りたい。
そのときは、帰りたいと答えた。

そして、非難解除にあったときにまた同じレポーターが聞きにきた。
「非難解除がされましたが、やはり帰りたいですか?」
と聞かれたが、実際に帰って生活できるような状況ではない。
家の修理も手付かずの状態だったし、生活に必要な物資を地元で用意できるような環境ではなかった。(もちろん今もだが。)
もちろん帰りたい気持ちはある。でも実際にできることと出来ないことがある。
おばちゃんは素直に
「帰りたいけど、やっぱり帰れない。」
といった。ところがレポーター達は怒ったように、
「あんた帰るって言ったじゃないですか?前言ったのに帰らないんですか?」
と詰め寄ってきたそうだ。
しまいには、
「あなたはあのとき嘘をついていたんですか?」
みたいなことまでいわれたらしい。
いきなり責められるような状態になってしまったため、おばちゃんは何もいえなくなってしまったそうだ。

この話をきいたとき、本当に腹が立った。
これは取材なのか?そもそも誰のために話を聞きにきているんだ?
おばちゃんは現状を考えて正直に話をしただけだ。
それなのに責められるってのは一体何なんだ?
TV局としては、苦しい環境でも村に帰ろうとしている人達の姿を撮りたかったのかもしれない。
でもそれが実際に出来ないからといって、おばちゃんを責める権限がお前らにあるのか?と、このとき来ていた連中にいいたい。

あと、これは自分のほうであった話。

去年、明徳のボランティアでクリスマスケーキを配る企画を行った時のこと。
(その辺は、カテゴリーの”新潟中越地震”やマイフォトの”明徳ボランティア企画)クリスマス会”を見てください。)

どこから仕入れたのか知らないが、数社から”自分の方に取材させてください”とメールがあった。
クリスマス会の趣旨として、久しぶりに家族水入らずで過ごしてほしかったというのもあった。
できるだけ取材はしないでほしいと思っていたので、以下のようなメールを返信した。
(以下、相手に送った原文のままです)

---------------------
こんにちは。
たけぱんだ@ウェブ管理人です。

表記の件について、回答させていただきます。

今回の企画は、特にメディアに取り上げていただくようなものではないと思っているのですが・・・。
もともとの主旨として、

・あんまりでしゃばらず。
・できるところをお手伝い。
・主役は現地の人達であることを忘れずに。

ということをかかげているので、あまり目立ったことはしたくありません。
ただ、「こんなことをやっているとこもあるんだ。」位の撮影はとくに問題ありません。

しかし、被災当時、心無いいくつかメディアからの取材で不快な思いをしたことがある、というのを現地住民から聞いております。
そういったことから、以下の2点について了承していただけますでしょうか?

・仮設の人たちに対して、絶対に迷惑をかけない。
(これが絶対条件です。ようやくすこし安心できるようになった地元の人達が不快になるようなことがあっては、この企画自体の主旨に反

します。地元の方々を撮影する際は、必ず許可を取ってください。)

・この取材に関するやり取りに関して、このHPにて公開してもかまわない。
(実際にメディアがどのように取材を行っているのか?ということを、やり取りしているこのメール、また現地での取材の様子なども含め

て、HP上でご報告させていただきます。)

この上記2点についてお約束していただけるのであれば、取材についてはOKです。
明日から現地入りしていますが、メールは見れると思います。
---------------------

これに対して、あるTV局は”タイミングが合えば取材させて頂きたいと思っています。”と回答してきた。
いろいろやり取りがあったのだが、”撮ってやるよ”みたいな感じだったので、非常に腹がたった。
撮ってくれなどとお願いするつもりはさらさらなかったので、別に撮っていただかなくても結構ですとお断りした。
このメールも載せるつもりだったのが、あまりにも腹が立ってしまい、速攻で削除してしまった。

ほかにもアポなしでいきなり勝手に取り始めたTV局もあった。
これはもう問題外。
この企画の趣旨を話した上で、お引取り願った。

このときお引取りねがった2つのTV局のどちらにもいえる事だが、ものすごく高慢な感じがした。
俺たちが撮ってやるよ、みたいな。
TVで撮ってやれば皆よろこぶとでも思っているんだろうか?
それとも、なにか自分たちが特権を持っていると勘違いしているんだろうか?
ほんとにいい加減にしてほしい。

逆に非常に気を使ってくれたのが、NHKと共同通信社(新聞)。
どちらとも、こちらの趣旨をきちんと理解して取材を行っていた。
ちなみにこれがNHKの担当者さんから届いた返信メール。
(原文のまま。担当者名は伏せさせていただきます。ちなみに公開することについては了承を得ています。)

---------------------
たけぱんだ様
こんばんわ。メール拝見いたしました。早速のお返事ありがとうございます。

取材にお邪魔する際には、ご提示の条件については、全て同意の上でさせていただきたいと思います。
2つ目のやり取りの公開の件ですが、このようなメールを介した取材はあまり一般的ではないので、参考になるかわかりません。

ところで、実際に取材にお邪魔するかどうかを決める前に、企画の詳細や段取りについて、二、三お伺いしたいことがありますので、連絡

先の電話番号をお教えいただけますか?
このようなメールでのやり取りは、タイムラグが少なからずあるため、時間の節約のためにも直接お話できると幸いです。明日の午前中の

うちにお話が出来ればと考えていますがいかがでしょうか?

お忙しいところ、勝手ばかりいいまして誠に恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

NHK新潟放送局 ○○
---------------------

実際に配っているときにも、取材用のライトで道案内をしてくれたり、物を運ぶのを手伝ってくれたりもした。
いろいろ制限をつけたにもかかわらず、きちんと対応してもらえて非常に好感が持てた。
そして、2日後以下のようなメールが届いた。

---------------------
こんばんわ
NHKの○○です。
先日はお忙しい折、勝手を言ってお邪魔させていただきありがとうございました。
無事、放送にいたることが出来ました。
皆さんのお気持ちや思いを、十分に伝えることが出来たかはわかりませんが、
私自身も、子供たちの表情に心が和みました。
今後復興へ向かうなかで、様々な局面が訪れるかと思いますが、節目節目で、我々もなにかお手伝いできることがあれば、させていただき

たいと思っています。

寒さ厳しくなりますが、お体ご自愛のうえ、よいお年をお迎えください。
本当にありがとうございました。
今後とも、取材・放送へのご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。
---------------------

正直いって取材で迷惑しているという現地の人達の話を聞いていたのでかなり警戒していたのだが、そういう人達ばかりでないということ

を知った。
先に書いたどっかのTV局とは大違いだ。

やはり取材するときにでも、礼節は大事にしなければならないと思う。
きちんとした節度をもって取材すれば、取材されたほうだって礼儀で返すはずだ。(状況によるとは思うが・・・)
こういう基本的なことが出来ていない報道機関が多いというのは残念だ。

報道は現実に起こったことを客観的に伝えることが重要なんではないだろうか?
事実を知ってどう考えるかは、それを見た人達が決めることだと自分は思う。

・・・つづく。(次回でいちおう一区切りです。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 17, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その10~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その25 ボランティアでのエピソード(その3)

このとき自分はボランティアに参加していたが、ある意味ものすごく中途半端な立場にいたと思う。

被災者の家族。でも、外からきたボランティア。

どちらの立場も分かるような気もするし、分からない部分もある。
そんな立場でボランティアをやっていて、ほんとにいろいろなことがあった。

実際に起こった出来事について書くが、自分の個人的な視点で捉えたもので、すべてがそうだとはいえない部分もある。あくまでも個人的な意見のひとつ、として読んでいただきたい。

< 被災したから >

避難所にきて3日くらいたったころだろうか。
あいかわらず忙しかったが、まわりも慣れてきていたのだろう。
だいぶスムーズに物事が進むようになってきた。

人は慣れてくると、見えてこなかったことも見えてくるようになる。
そうなると、些細なことでも気になる人もでてきた。
最初のうちは多少不自由でも、感謝しながらいろいろしてもらっていた。
しかし、それがある程度繰り返し続くとだんだんもっとこうしてほしいのに・・・という要求が出てくる。
それは仕方がない。
これは誰しも思うのではないかと思う。

被災して家にも帰れない。
なんで自分たちがこんな目にあわなきゃいけないの?
こんなふうに大変な目にあっているんだから、よくしてもらわなければ割が合わないよ。
しようがないでしょ。だって被災したんだから。

そんな風に思うことも自然な成り行きだと思う。
皆、聖人君子ばかりではない。
時間の経過とともに、いろいろしてもらうことに慣れてしまってきていたのだろう。
やってもらって当然、と思ってしまうようになっていた人が多かったと思う。

はずかしい話だが、うちの親父がそうだった。
忙しかったせいでよくは覚えていないのだが、その日は調子の悪かった親父とともに親戚の所へ泊まりに行ったときだった。
たしか食事のことを話していたとき、「避難所の食事の支度はなってない」みたいなことを親父が言った。
忙しかくていらいらしていたこともあり、おもわず「やってもらっているのになにいってんだ!今の状況分かっていってんのか!」怒鳴りつけてしまった。
親父は、はっとした顔をしてそれ以降はなにも言わなくなったが、今考えるとそう思ってしまうのも仕方ないんではないかと思う。

実は、うちの親父はすい臓を病気で壊してしまい、食事にかなり制限がかかっている。
ただでさえ食事に関して気を使っていたのに、あの状況下では食べられる物も制限されてしまう。
「あのときは、ほんとにいろいろときびしかった」
とこの前話していた。
みんなが配布された物を食べているのに、自分が食べたたいものが食べられない。
それとは逆に食べれるものを持ってきても、他の人と違うのでみんなと食べるときに気を使ってしまう。
この頃の親父はほんとにまいっていた。

これはほんの一例だが、やってもらって当然と思っている人は結構いたと思う。
それはよくないことだとは思うが、あの状況下で普段の感覚を維持していくのは並大抵のことではない。
もし自分が同じ状況に置かれたら、自分もそうなっていると思う。

< ちょとしたアクシデント >

荷物の分別だったか、置き場所を決めるときだったか忘れたが、自分が地元の人にいろいろ指示を出していたときだった。
「なんでおまえが仕切ってんだ!」
という感じで怒鳴られたことがあった。
あの時はいろいろ運び込まれていて、自分の方でも処理しきれずにいらいらしていた。
自分では丁寧にお願いしたつもりでも、相手にとっては失礼なことを言ったのかもしれない。
でも、なんとかしなくてはならないのでひたすらお願いした。
しばらくすったもんだしたが、役場の人が来てくれて仲裁してくれたおかげで、その場は収まった。

これは自分が思ったことだが、その人からすれば、
「地元をはなれていって、すでによそ者になってしまったやつ」
だったのかもしれない。
こんな状況になってたまたま帰ってきたやつが、あれこれ指示をだしているのを見るのが面白くないと思った人もいたと思う。
考えてみれば、18歳で地元を離れたので既に10年以上経っている。
そういった人からすれば、18歳のガキのころまでのイメージしかないのかもしれない。
地元を離れたやつが偉そうに指示しているように受け止められても、仕方ないことだと思う。

ボランティアをやっていて途中からうすうす感じていたが、実際に言われたときはショックだった。
逆切れしそうにもなったが、その場が収まったあとは無性に悲しくなった。

その日の夜遅く、他の地区から応援に来ていた役場の人と話していたとき、「古志の里」を見せてもらった。
たまたま、その役場にあったのを思い出して持ってきたらしい。
なつかしい風景をみたとたん、胸がつまった。

村はこわれちゃったんだな。風景も、人も。

そんな風に思った途端、ぼろぼろ涙がでてきた。
ページをめくりながら、ぼろぼろ泣いた。

昼間のこともあったし、疲れていたんだと思う。
いろいろつぶやきながら、写真集を見ていた。
周りは寝静まっていたが、役場の人とボランティアの人はだまってつきあってくれた。
大勢の人の前であんな風に泣いたのは初めてだったと思う。

< 引継ぎ >

現地入りして6日目。
まわりもいろいろ慣れてきて、ルールも次第に出来てきた。
荷物置き場や管理担当なども決まり、窓の湿気当番も決まった。
食事の順番、後片付けも当番制になりスムーズに生活できるようになった。
いままでボランティア任せだったところも、徐々に地元の人達が自分たちで出来るようになってきていた。

このころ、ボランティアのほうも次第に人数が少なくなっていった。
皆、そろそろ自分の生活にもどらなければならない。
最初のころの活動はボランティアがメインでおこなっていたが、長期化するのは目に見えていたため、いままで行っていた仕事などを引き継いでもらう必要があった。

みんなでいままでやってきたことの注意事項をまとめたり、どこになにがあるのか、どういう手順でなにをしなければならないかなどをノートに書いたり、大きな紙に書いて貼り付けたりした。

いろいろ引き継ぐ中で、食事の準備についての説明を自分がやることになった。
前にも書いたが、人数を把握して数量を決めたり、届いた食料の配分をどれくらいにすればよいかなどを決める非常に責任の重い仕事だ。
各部の食事担当となったお母さんたちと、村役場の代表としてSさんに集まってもらい、説明をはじめた。

最初に自衛隊のどの人に頼めばよいのか、それを何時までに報告するかなど具体的な手順を説明した。
そして頼むときの人数の把握のポイントや、配分のポイントなどを話したところで、
「これから数日でボランティアの人達が一斉に帰ってしまいます。明日以降、この手順で発注も含め、ここに集まった人達で行ってください。」
とお願いした。

するといきなり反論の声があがった。

「こっげ大人数の配分などやったことがねーがね。どっくれん分量で配ればいいかわからねて。」
(こんな大人数の配分なんてやったことないわよ。どれくらいの分量で配ればいいかわからないわ。)
「昼間突然村に帰ったり、夜になったら親戚のとこに泊まりにいったりするろ?人数の把握なんてできるわけねぇて!」
(昼間突然村に帰ったり、夜になったら親戚のところに泊まりにいったりするでしょ?人数の把握なんてできるわけないじゃない!)
「そっげ責任の重いことはできねぇて!足りんくなったりしたら誰が責任取ることになるが?」
(そんなに責任の重いことなんてできないっ!足りなくなったりしたら誰が責任取ることになるの?)

ある程度は覚悟していたものの、想像以上に言われてしまった。
とはいっても、現実として誰かしらがやらなくてはならない。
頼みの綱だったボランティアも人数ががくんと減ってしまう。
「すいません。でも誰かがやるしかないんです。お願いします。」
とひたすら頼み込んでみたが、一向に治まる様子がない。
圧倒され続け、半分べそかいてるような状態になったときに、いままで黙っていたSさんが口を開いた。

「ちょっと、みんな聞いて。
みんなが大変だと思うのは当然だろうけど、今まではそれをボランティアの人達がみーんなやってくれてたがぁよ。
それもみんなそっげんことしたことのない素人の人ばっかだよ。
今回初めてボランティアやったような人だっていたがぁし。
やったことがねーがぁはみーんな同じ。
たまに食事が足りなくなったりしても、だれもボランティアの人を責めたりしんかったろ?
みんながやっても、同じだがね。
間違ったりしたからといって、責めたりしないろ?
ここにいる人達は、旅館に泊まっているお客さんじゃねぇがぁよ。
家族やら隣近所の人ばっかりだがね。
小学校に避難してたき、みんなして炊き出しやってきたねっか。
あのときは、それこそみんなで協力してうまくできたねっか。
ちょっと足りなくなっても、ごめんね、といって他のもので我慢してもらったってもいいがね。
それを許さんような人はここにはいねろ?
もし、そっげんことで文句いうやつがいたら、あたしに言いいにこいて!とっちめてやるっけん。」
(ちょっとみんな聞いて。大変だと思うのは当然だろうけど、今まではそれをボランティアの人達が、みんなやってくれていたんだよ。それも、そんなことをしたともない素人の人達ばかりで。今回初めてボランティアやったような人もいたし。やったことがないのはみんな同じ。たまに食事が足りなくなったりしても、誰もボランティアの人を責めたりしなかったでしょ?みんながやっても同じよ。間違ったりしたからって、責めたりしないでしょ?ここにいる人達は、旅館に泊まっているお客さんじゃないのよ。家族や、隣近所の人ばかりでしょ。小学校に避難していたとき、みんなで炊き出ししたじゃない。あのときはそれこそみんなで協力してうまく出来たじゃない。ちょっと足りなくなっても、ごめんね、といって他のもので我慢してもらえばいいじゃない。それを許さない、なんて人はここにはいないでしょ?もし、そんなことで文句をいうやつがいたら、あたしに言いにきて!とっちめてやるから。)

みんな一斉に言葉に詰まった。
たしかにSさんの言うとおりだった。
このときに、やってもらって当然、という意識になっていたことにみんな気づいたんだと思う。
しばらく静かになってしまったが、Sさんが笑いながら、
「ほら、みんなして黙ってばっかりだと決まることも決まらんがね。」
といってくれたおかげで、後は割りとスムーズに話がまとまっていった。

実はSさん、昔は幼稚園の先生をやっていた人。しかも自分の幼稚園の頃の先生だったりする。
その後、役場職員になり、村のイベントやお祭りなんかの放送の仕事(←実家の手伝いで)をいっしょにやったこともある。
もともと説明することがうまい人だったけど、この状況下で皆を納得させるというのは本当にすごいことだ。
こういう状況下で皆をまとめるっていうは、ある意味カリスマ的なものを持っている人なんだろうと思う。
過去の偉人などでカリスマを持っていたという人がいるが、こんな身近なところでそういう人に会うとは思ってもみなかった。というか、いままでの付き合いは長かったけど、そんな風に思ったこともなかったし。

ぎりぎりの状況になると、人はいろいろな側面が見えてくるんだなぁと本当に思った。
強さや弱さ、そして、悪いところも、いいところも。

説明が終わった後で、Sさんのところにお礼を言いにいったところ、
「今の状況でみんなパニックなのよ。普段だったらあんな言い方はしないわよ。たけちゃん(←たけぱんだ)はみんなよく知ってるから思わずいっちゃたんだろうね。たぶんボランティアの人達相手だったら、あんまり言わなかったと思うよ。」
といっていた。
村の人達は、ボランティアの人達に本当に感謝していた。
人間、やっぱり良くしてもらっている人に対しては悪いことはなかなかいえないと思う。

今回、自分はボランティアとして参加した。
でも、地元の人達は自分に対して正直な意見をいっていたと思う。
実際、直接言いにくいことなどは自分を通してボランティアに伝えるような形になっていたときもあった。
いまだからいえるけど、あの時はほんとうにしんどかった。

被災者の身内だけど、村の外から来たボランティア。
家のことをやってボランティアの仕事をほかの人に任せたり、家のことをほっぽってボランティアやってみたり。
どっちつかずの中途半端な立場。
でも、そのおかげでお互いの視点から物事を見れたと思うし、ちょっとは間を取り持つお手伝いも出来たと思う。
それにいろいろな人達とのつながりもできた。
それがなによりもうれしい。
辛いこともたくさんあったが、いままでの経験のなかでも一番貴重で、本当に濃い時間を過ごしたと思う。

こうして、この説明を行った翌日、ボランティアでの作業を終了して帰路についた。

< おまけ:後日談 >

ボランティアをやってきた後のこぼれ話。

12月に帰ってうちのカレンダー(一応毎年配っている)を配りにいったときのこと。
”ちょとしたアクシデント”のとき、自分にいろいろ言ってきた人のうちに配りに言った際、
「大変だったのに、すまなかったな。」
といってくれた。

また、知り合いのおばちゃんに道ですれ違ったときに、
「この前は、ありがとうねー。」
と言われた。特になにかした記憶がなかったので、なんのこと?と聞いてみたら、
「ボランティアでいろいろやってくれたろ。ほんとありがとね。みーんな感謝してるて。」
と笑顔でかえされた。
こんなふうにいってくれる人は、一人二人ではなかった。

いろんなことに感謝し、それを素直にいえる人がいる。
そういう人が住んでいるところで生まれ育ったことが、ほんとうにうれしいと思った。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 16, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その9~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その24 ボランティアでのエピソード(その2)

< 共同生活の実際 >

これは避難生活をしていた、同級生の弟の話。
玄関先でタバコ吸いながら話を聞いた。

-------------------------------
避難所の生活はきびしい。

食事もしっかりしているし、手足を伸ばして眠れる場所もある。
生活する上では、かえって何もしないから楽なくらいだ。
でも、プライバシーはまるっきりない。

家で問題になっていることや生活のことなどは、気を使って話をしても周りに聞かれてしまう。
いろんなところで禁欲生活を強いられてしまう。
強制的にいろんな役割が振られる。
贅沢を言うつもりはないが、プライバシーがほしい。
はやく仮設に入りたいな。そうすれば、もう少しまともになると思うんだけど・・・。

今の生活の中でも、小さなごたごたは日常的にあるね。
とはいえ、普段の状態ではきならないようなことばかりだ。
決して大げさになるようなことはない。
我慢しなければならない状況に置かれていることくらい、みんな分かっている。
しかし、それが1つ2つでなく、数百もある。
普段だと自然にへっていくものだが、減る気配がまるでない。積み重なるばかりだ。
普段と全く異なる状況でのストレスの溜まり方がこんなに辛いってのは予想以上だ。

今、こんな状況に置かれているのは地震のせいだ。
しかし、ストレスをぶつける対象が自然相手だとどうしようもできない。
ようはそれをぶつける対象がないんだよな。

そんな状況にいると、なにかをしてもらっていても些細なことでも気になってしまい、それが次第に不平や不満に形を変わっていく。
ボランティアや自衛隊の人にはすごく感謝しているけど、正直言うと不満もある。
でも、実際のところ、何かをしてくれる人達に対して不満に不満がある、というのではないんだろうな。
直接不満をぶつける対象になりやすい、ってことなんだと思う。
いろいろやってもらって助かっているし、感謝もしている。
だから何も言えない。
そうして不満がつのる。そうすると・・・結局、また同じことの繰り返し。

慣れない集団生活に対してかなりストレスがたまっていても、解消できないんだよな。
こうやってタバコ吸ったり、ちょっとビール飲んだりするくらいして気を紛らわすくらいしか出来ないのが現実なんだ。

でも、こんな中でも役場の人達はすごいよ。
うちのカミさんが役場の職員だからってひいきしてるわけじゃない。
自分たちだって被災者なのに、家のことなんてほったらかしにして、朝から夜遅くまでみっちり仕事をしている。
しかも、みんなからの要望や苦情なんかも聞いたりしてさ。
こっちが聞いてほしいくらいだー、って思うこともあるって言ってたよ。
そんな話されると切ないよな。
仕事だからがんばれよ、なんて簡単に言えるようなことじゃないし。

ほんと、はやく仮設に入りたいよ。
-------------------------------

この頃が一番辛かったのかもしれない。
プライバシーがまるっきりないというのは、本当に辛いと思う。
これは話を聞いた人達全員に共通していた。
眠れないという人もいたようだし、体調を崩した人もいた。
この生活は、話を聞いた後約1ヶ月半つづいた。

< お手伝い >

物資の搬入で毛布がきた時の話。

たしか、夜の9時頃だったと思う。
食後、自分が玄関でたばこを吸っていた時に、大きなトラックに毛布が搬送されてきた。
とりあえず中に入れようということになり、早速その場にいた何人かで荷物を降ろし始めた。

ちょうどそのとき、遊んでいた子どもたちが通りかかった。
「なにしてるのー?」
と聞かれたので、
「お布団運んでいるんだよ。」
と答えた。ふーん、といって最初はその様子を見ていた。

そうしたら、そのグループで一番年長らしい子どもがだまってトラックのほうへ行き、同じように運び始めた。
だれも、手伝ってよ、と指示したわけではない。
子どもたちの方から自発的にお手伝いをしてきた。
今度は、それを見ていた小さい子までが
「ぼくもはこぶ」
といって参加してきた。
束ねられた毛布よりも小さい子どもたちまで。

大きな子は、今の状況をきちんと把握していたし、大人たちの大変さも理解していた。
だから自分たちが出来ることは、きちんとやろうとしていた。
小さい子どもたちは、年上のこどもたちが手伝っているのをみようみまねしているだけだったのかもしれない。
なかなかうまく運べずにいたので、かえって手間がかかったりもしたが、そこにいた人達は笑いながらいっしょに運んだ。

こんなふうに行動できる子どもが、ここにいる。
それがなんだか、とてもうれしかった。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 10, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その8~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その23 現地でのエピソード(その1)

現地にいる間、いろんなことを聞いたり、経験したりした。
実際にあったことは、きれい事ばかりではなかった。

< 入村 >

地震が起きて、村から全員避難した後。
誰もいなくなった村には、よからぬことを企んでいた人間が出入りした形跡があったそうだ。

地震が起きた翌日には、蓬平にある太田農協のATMは壊されていた。
幸いなことにお金は前日のうちに他の場所に移してあって、難を逃れた。
地すべりの影響で倒壊した家には、つっかえ棒をしたうえで荒らされた形跡があった。
そのころは各道路とも地すべりなどで車の入れる道はなかった。
それでも、地震発生直後に村のほうには他県ナンバーの車が多く来たそうだ。

誰もいなくなってしまった村は、無防備だった。
そのため、村の中には地震発生後、すぐに警察が常駐するようになった。
定期的な見回りなどを行うためだ。

自分が村に入る際にも入村許可証なしではいろうとした他県ナンバーの車を何台か見た。
親戚だと言ってみたり、昔来たことがあるからなどと言って入ろうとしていた。
そういう会話が目の前で行われていたのを、聞いている。
ほんとうにその通りなのかもしれない。

でも、実際に親戚などがいれば、その人達とくるはずだ。
全員が避難していたのは報道で分かっている筈だし、親戚にあっていれば許可証なしで入れないことくらいわかっていなければおかしい。

昔来たことがあって、今どんなになっているか気になるのはわからないでもない。
でも、このような状況下では簡単に入れないことくらい想像できないのだろうか。
気持ちはわからないでもないが、今起きている状況を把握した上で行動できないんだろうかと思う。
来ていた人は、みんな大人なのに。

< 疑惑 >

避難所には村の人達以外にもたくさんの人が出入りしていた。
心配して訪れる親戚や知人、救援物資を届ける人、そしてボランティアの人・・・
もちろん、村の人を心配してたずねてきたり、何かしてあげたいと思っている人ばかりだ。
でも、見知らぬ人達というのは、どんな人達か分からないということ。

ボランティアをやっていた際、ちょっとしたトラブルがあった。
ボランティアセンターで登録されていない人が、入っているという情報があった。
あわててその当人を探したが見当たらない。
ボランティアセンターのほうからも人がきて、状況などを話し合っていた。

しばらくして、その当人が帰ってきた。
どうやら買出しに行っていたらしい。
ボランティアセンターの方に行き、事情を聞いた後、結局その人は避難所を去った。

聞いた話だと、登録にいったがきちんと登録手続きされないうちに、この避難所にまわされたらしい。
センターのほうも、不備だったと謝っていた。
特になにがあったわけではない。
でも、こういった騒ぎになってしまったため、やむえずお引取りねがったらしい。

この頃、ボランティアセンターには本当に多くの人達が駆けつけてくれていた。
どこにどんな人が必要とされているのか。
きてくれたボランティアの人は、いつまでできるのか。
様々な条件を考えながら割り振っていく仕事はほんとうに大変だったと思う。
ボランティアセンターのほうでも、沢山きていてくれた人たちをさばききれなかったのかもしれない。
混乱している状態で一生懸命やっている人達に、まちがいをするなというのは非常に酷なことだ。

その人も困っている人を助けたくてボランティアにきてくれたのだと思う。
自分がやらなければならないことをそっちのけできたのかもしれない。
それがこんな形になってしまったのは、その人にとっても周りにとってもとても残念なことだ。
こういうことを起きないようにするのは難しいことかもしれない。
でも、2度と起きないことを祈るばかりだ。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 09, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その7~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その22 初めてのボランティア(その3)

ボランティアでやってたことのつづき。

< ご飯の数の報告 >

自衛隊の給食がきて最初の頃、ボランティアがご飯の数量を決めていた。
人数を確認して、何食分用意してもらうのかを決め、自衛隊の報告をする。
簡単にいえばそれだけのことだが、実はものすごく大変。

約300人分の食料の配分を判断をする。
子どもから老人まで食べる量の異なる人たちが対象だ。
人数を把握するにしても、人の出入りが激しかったため、朝、昼、夜では避難所にいる人数が異なる。
多く頼んでしまえば余ってしまうし、少なく頼んで足りなくなってしまえば、問題になる。
何人くらい出かけているとか、宿泊する人の人数を聞いてまわったりしたが、正確な人数など出てくるはずもなかった。

また、自衛隊の食事の分量は、はっきり言ってかなり多い。
素直に人数分頼むと、食べきれない量が出てきた。
(感覚としては、普通の大人の人が食べる量の1.5倍くらい。)
余ったものはできるだけ、次の食事にまわすようにした。
そういったことを全部配慮しながら、次の食事の人数を決めなければならなかった。
それも準備の時間などの関係から、食事が終わってすぐにやらなければならない。

基本的には、この仕事はボランティアのリーダーに任されていた。
もちろん、みんなである程度相談しながらのことだったが、最後に報告するのはリーダーだった。
そんな人数の食事の面倒などみたこともない、ボランティアの経験もない、という人もいた。
担当した人は相当なプレッシャーだったと思う。

< ご飯の運搬 >

ご飯、味噌汁、おかずなどを校舎の裏に設置された自衛隊のテントから運ぶ。
作られた料理は、保温性の高い、ごつい容器に入れられて支給された。
空でも重いのだが、それに中身がたっぷりと入っている。
しかも約300人分となれば、相当な量になるのは容易に想像できると思う。
自衛隊の人に途中まで運んできてもらったこともあったが、体育館の中に運んだり配置するのはボランティアの仕事だった。
この作業が毎日3回づつ。
なれないうちは、この作業で筋肉痛になったりもした。

< ご飯の配布 >

食事は村の中で決められた部(4つに分けられていた)ごとに取りにきてもらうようになっていた。
毎食毎に順番をかえて、できるだけ平等になるようにした。

食事の盛り付けは、最初のうちはボランティアだけで行っていたが、そのうち各部のおかあさんにも手伝ってもらうようになった。
しかし、盛り付けの量などは最初のうちは直感に頼るしかなかった。
学校のように40人位に配るのとはわけが違う。
大体これくらいね、といってみんなにお願いをして配っていた。
なれないうちは、多く余らせてしまうことが多かった。
少しづつでも、全員に行き渡ったほうがいいと思っていたから。

少し慣れてくると、少なめに頼むようになった。
でも、あるおかずだけが足りなくなってしまったことも何度かあった。
そんなときは、保存のきく食料を出したりしてしのいでもらっていた。

普通なら、足りなくなってしまって文句を言われると覚悟していたが、そんなことはなかった。
(自分がやっていたときは、ですが。)
すいません、と誤りながら配っていると、
「しょうがないよー。だいじょうぶだよ。」
といって笑ってくれた。
これで救われた思いがしたボランティアの人も多かったと思う。

ちなみに自衛隊のご飯はどれもおいしかった。
栄養のバランスもいいし、おかずも多い。
「家の食事よりも豪華だ。」といっていた人もいたくらいだ。
(一人暮らしをしている自分の食事よりは、まちがいなく豪勢です。)
仮設に移動するとき、
「あんなご飯を毎日食べられなくなるのが残念・・・。作るのも大変だしね。」
といっていたおかあさんたちが、どれほどいたことか・・・。

あと、配るときに列を作ってもらうようにしていたのだが、このときにも子どもに手伝ってもらった。
やはり子どものいうことはみんなよくきく。

ああ。やっぱり子どもは強い。

< ご飯の片付け >

食べ終わったものは各自で指定された場所に返した。
ごみと食器をわけてもらうところまでは、個人でやってもらっていた。
この頃、食器は使い捨てのプラスチックの容器を使用していた。
しかし、どれくらい供給されるかもわからない状態だったので、使えるような食器は洗って乾かして再利用した。
最初の頃は、この食料を配るのと洗って乾かして数えて集めておく、という作業がボランティアでかなりの割合を占めていたと思う。
しかし、使い捨てでないものを再度利用するというのは、ちょっとした懸念事項もあった。
洗い場も不十分、乾燥させるのもみんなが生活している場なので、衛生的にはあまりよくない。
下手をすると集団食中毒などの危険性もあるのではないか?との意見が出始めたため、使い捨てのものはやっぱり捨てようということになった。
ちょうど、この話がでてきたころに現地をはなれてしまったので、その後のことはよくわからない。

----------------------

ボランティアではほんとにいろいろなことをやった。
面会に来た人を案内したり、ちょっとしたものを物資のところから取ってきたり・・・。
あと、電気関係のトラブルなどもちょっと手伝ったりもした。
家が電気屋というのもあるが、一応免許も持っていたので、それが役立つこともあった。
(一応、工業高校の電気科卒だったんで。)

とにかく忙しくボランティアをしていたが、そんな中でちょっとしたエピソードがいくつかあった。
それについて、ちょっとまとめてみたいと思う。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 08, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その6~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その21 初めてのボランティア(その2)

ボランティアでやってたことのつづき。

< お風呂への案内 >

自衛隊の人が、お風呂を用意してくれた。
このとき、何人かづつまとめて入るようになっていたが、そのときの先導を行っていた。

この自衛隊のお風呂、震災後にはじめて入った人達は
「やっと生き返った。」
といっていた。
ちょっと(?)湯船が高く、半腰状態で肩まで浸かってしまうという変ったお風呂だったらしい。
パッと見はでっかい子供用プールみたいな感じ、らしい。
(おいらは親戚のところで寝泊りしたのが半々くらいだったので、このお風呂には入っていない。とても残念。)

この前、このお風呂を担当していた自衛隊の人と話す機会があった。
民間の人を入れることはあまりなかった(そりゃそうだ)ので、いろいろ気をつかったとのこと。
湯船が高いので、特にお年寄りや子どもには気をつけたそうだ。
また、こんな状況だったからこそ、お風呂を楽しんでもらいたいということで、お湯に入れる入浴剤を毎日変えていたといっていた。
子どもたちがなついてくれたおかげで、この仕事は楽しかったと言っていた。

< 他のボランティアとの連絡係 >

他から来たボランティアの人との連絡係をやったりもした。
基本的には役場の人に伝えるだけの仕事だけど、時には案内とか場所の確保なども行った。

アポなしで突然くる団体もいくつかあった。
うれしい申し出がたくさんあったが、まれに同じようなものがかぶってしまった場合もあった。
たとえば、温かいものを食べてもらいたいからと、炊き出しをさせてくださいというのが、同じ日にかぶってしまい、一時間位づれてきてしまったこともあった。
すでにご飯を食べた後で、皆おなかいっぱいという状況ではそういうのがあったとしても、気持ち的にうれしいけど食べることが出来ない。
普段食べれないようなものを出してくれていたところもあったので、残念がっていた人も多かった。

基本的にはボランティアセンターや役場に連絡があれば、なにかしらの対応が出来たかもしれない。
贅沢な悩みだったとは思うが、もう少しなんとか出来たような気がして残念だ。

< ストーブの灯油補給 >

11月となれば、夜は寒い。
避難所となった体育館では、灯油ストーブが暖房の要だった。
それらの給油を定期的に行った。
台車を使って灯油を運んだが、ストーブの数も多かったし、台車が入れないところもある。
そういったところはポリタンクを持って移動したりするので、これが以外と時間がかかった。

それぞれ、同じような間隔で配置しているものの、近くにいる人と遠くにいる人ではだいぶ温度差がある。
寒いからといってあげたりすると、近くの人は熱くて仕方ないし、逆に下げすぎれば遠くの人は寒い。
でも、わりとみんなでうまくやっていたようだった。

< 加湿&換気 >

基本的にはストーブを焚きっぱなしだったので、室内は乾く。
そこで、体育館の2階の窓全部にぬれ雑巾で湿らせて湿度を保ったり、少しだけ窓を開けて換気を行ったりした。
この仕事は2時間づつ、昼夜問わずに行われていた。
実は意外と大変な作業だったりする。

じつはおいらもこの作業をやる予定になっていたのだが、思いっきり寝過ごしてしまった。
夜中に起きるように携帯をセットしたが、まるっきり気づかなかった。

ボラのみなさん。ごめんなさい。
ひんしゅく買っただろうなぁ・・・。

< 子供の遊び相手、じーちゃん、ばーちゃんの話相手 >

これは、個人的な意見だけど。

ある意味、ボランティアの本領発揮だったこともしれない。
明徳に子ども好きなボランティアが多かったのかもしれない。
とにかくボランティアは子どもたちの人気者だった人が多い。
皆かってなあだ名をつけられて、遊ばれて(?)いた。
いろいろとやることが多くなった親たちはほんとうに助かるといっていた。

また、お年寄りに対しても、みんなやさしく接してくれていた。
ほんとにちょっとしたことでも、言葉を交わしてくれる。
そういうのがうれしいと村の人は言っていた。
おいらが向こうに帰ったとき、ボランティアの話になると周りの人は皆声をそろえて言う。

「うちにきてくれたボランティアんしょは、ばかいいしょばっかだったて。」
(うちにきてくれたボランティアの人は、すごくいい人ばっかりだったなぁ)

今でも、ボランティアの人が来ると子どもたちが集まってくる。
村の人と道端で会えば、ちょっとした言葉を交わす。
それが楽しいと言うボランティアの人もいる。
こんな風に人と人のつながりが出来たというのはうれしい。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 07, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その5~

実家に帰っていたんで、ちょっと滞ってしまいました。
過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その21 初めてのボランティア(その1)

31日。

家の方の用事が大体済んだので、ようやくボランティアができるようになった。
最初にボランティアセンターで受付を済ませ、ちょっとした説明を受けた。
本来であれば、ボランティアセンターの方でどこに配置するかきめるのだが、実家のこともあったので明徳でボランティアができるようにしてもらった。

正直言って、この辺の記憶はかなりあいまい。
忙しくて何をやったのか記憶がごちゃごちゃになっている。
とりあえず、覚えていることや、実際に現場であったことをちょっとづつ書いてみる。

< 救援物資の物運び >

とにかくトラックでどかどかと物が送られてくる。運びこまれた物資を降ろしている間にも次のトラックがきたりと大騒ぎだった。
こういったときは村の人達も手伝ってくれたが、最初のころはどこに降ろせばよいかもわからず、ちょっとしたパニック状態になったりもした。
また、降ろした物資がこの避難所宛でないものを降ろして、また積みなおすなんてこともあった。
遠いところから救援物資を持ってきた人達に、ここは間に合っているから、他のところに持っていってくれ、とお願いしたこともある。
正直いって、せっかく持ってきたのになんなんだ?と思った人達もいると思う。
実際、これで衝突しかかったこともあった。
組織とか決まりが出来てないうちは仕方がなかった。
振り分けや場所の確保でパニックにならなくなってきたのは、村の人達が自分たちで管理するようになった11月の2日位からだったと思う。

< 救援物資の選別と配布 >

食料、衣料、毛布、マット、様々な救援物資が届けられた。
これを選別して、場所を決めて保管したり、配ったりした。

個人に配れるものがはすぐ配れるようにした。
送られてきた物資を一箇所に保管しきれなくなっていたためだ。
毛布やマットはすぐにでも使えるため、数が確認でき次第配布した。

衣類などは最初のうちは保管していたが、ある程度の数が集まった時点で数を確認し、できるだけ平等に分けた。
中には、着れるのか?というようなもうぼろぼろの古着もあった。
実際のところ、古着などはほとんど使われていなかった。
中にはいいものもあったりしてほしい人がもらっていったが、そうなると平等でなくなってしまう。

それよりもまとまった数で大量に新品などが届けられていた方が使われていた。
企業や団体がまとめて送ってきたものの方が選別しやすかったし、使うほうとしてはやはり新品のほうがいい。
実際、数着づつ送られてきても現場では対応しきれないことが多かった。
もし、送るのであれば同じものをある程度の数(ダンボールひとつとか)で送ってもらったほうが現場では助かる。
こういう状況下では贅沢などは言っていられないのだが、細かく分けて送ってもらっても選別するだけで時間がかかる。
(衣類を分けたときは、たしか半日くらいかかっていたと思う。)
そうなってしまうと、結局使われないままどこかにしまわれ、そのまま忘れさられてしまう。
送ってきてくれた人には申し訳ないと思いながら、処分したものもたくさんあった。

食料などは、ことあるごとに配った。
実際のところ、自分が現地についた時点で既に過剰になっていたと思う。
保存がきくものはまだよかったが、果物などの生ものはけっこう気を使った。
おやつといって配ったりしたが、それでも腐らせてしまう。
自衛隊が来て、給食を出すようになってからその傾向は更に強くなった。
特に体を動かすこともないので、おなかもあんまり減ってないといってたお年寄りもいた。

今回、報道のほうでも食料物資はもういいというところもあった。
たしかに日本国内であれば、災害から2~3日あればそういった体制は整えられるもんなんだなとも思った。
ただ、避難所のようにまとまっているところだったから、ということを忘れてはいけない。
この時点でも、川口や隔離された地域などでは物資が行き届いていなかった。
物資があってもそれを運ぶ手段がなかったり、物資が届いていることを知らなかったり・・・。
なかなかうまくいかないところもあったと聞いた。

そういった意味では、避難所はほんとうに恵まれていたと思う。

< 掃除とごみ捨て >

最初のうちはボランティアが部分的な掃除を行っていた。
でも、避難所で規則ができると村の人達がまとめて行うようになった。
毛布などがしきっぱなしになっていたので、掃除をすると大量のほこりがまった。
その間は、掃除担当以外は外に出たりしていた。
でも、「体を動かしたほうがいいなぁ。」といって掃除を楽しみにしている人も中にはいた。

食事の後や物を仕分けしたときに、大量のごみがでた。
ひたすら分別、そしてごみだし。
また、何もしなくともある程度ごみがたまった場合は、ボランティアがごみだしをおこなっていた。
最初のうちは分別をめんどくさがる人もいたが、村の人に注意されたりしてきちんと出すようになった。

ここで、ちょっとしたポイント。

給食のあとに食べかすや使い捨ての食器をごみ袋に入れてもらうようにしていたのだが、最初はけっこういい加減だった。
そこで、このときにこのゴミ袋を子供たちにやってもらったことが何度かあった。
最初に、子供たちに「この袋にはこういうごみしか入れちゃだめだよー。」といっておく。
そうすると、いい加減に間違っていれたようもんなら「だめだよー。ちゃんとわけてー。」と怒られてしまう。
子供相手だと、無視するわけにも怒るわけにもいかない。
「ああ、間違えた。ごめんね。」といって、きちんと分けてだすしかない。
何度か繰り返したら、けっこうきちんと分別されるようになった。

子ども強し。

< 看板やらプレートづくり >

「食料置き場」、「お風呂待ち」、「ゴミ捨て場」
取り決めたことや、物の配置などを示す看板とかの作成も最初はボランティアの仕事だった。
こういうところでは、絵の好きなボランティアがいろいろと書いてくれていた。

高校生や、絵を描くのが好きなボランティアがいろいろと書いてくれた。
ぶっきらぼうに書かれているよりも、ちょっとしたイラストなんかが入っていたほうが、やっぱりいい。
ただでさえ殺風景な避難所では、こういった気配りも大事かもしれない。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 04, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その4~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その20 体験談

避難所に到着して3日目の夜。
玄関に設置された喫煙所には、多くの人達が集まっていた。
その中で数人の親しい人達からいろいろな話が聞けた。

< 同級生 >

地震発生当時、家にいた。
最初ドーンという音と同時に家が縦に揺れた。
何かが家を貫いて行ったような感じだった。
その後、ゴゴゴゴ・・・という音がしたと思ったら今度は横に揺れ続けた。
どれ位揺れ続けたかよく覚えていないが、一回目の揺れで吹っ飛ばされて、揺れがおさまるまで立ち上がれなかった。
外に出ると、道は波打ってひび割れていた。
何が起きたのか、最初は理解できなかった。

隣近所と声を掛け合いながら、みんな集まってきた。
この地震で、何人もの人が亡くなった。
こんなことが起こったのは、やはりいたたまれない。
そんな中、幸いにも虫亀地区はみんな生きている。
これはほんとうに奇跡としかいいようがない。
みんなで協力したから、全員無事に脱出できたんだと思う。
いろいろあって大変だけど、山古志の人達はつえーて(強いよ)。

< 遠い親戚 >

その日は旅行に行っていた。
車で出かけていたが、途中、ラジオでで地震のことを知り、あわてて戻ってきた。
道が崩れていたりして、各所で渋滞が発生していた。
どの道が止まっていて、どの道が通っているのかもわからず、地図を見ながら帰ってきた。
富山あたりで引き返してきたのだが、長岡に入るまで6時間くらいかかった。

途中、いろいろなところに電話して情報を集めた。
家の人には連絡が取れなかったため、村外にいる知り合いなどを頼りに情報を集めた。
村へ戻れるか?と聞いたところ、山古志へのの道はすべて崩れたと聞かされた。
それでも行こうとしたが知人に止められたため、結局長岡で待つことにした。
そのなかで、どうやら山古志の人達が長岡大手高校に集まるらしいということを聞いた。
長岡に到着した後、すぐに大手高校に向かった。
応援部隊らしき人達がぞくぞくと集まってきていたが、村の人達は一向に来る気配がなかった。
その夜は大手高校の前で車を停め、一晩過ごした。
とにかく寒かったのと、トイレに行くのに不自由した。

< 兄貴の知り合い >

家の中でボーっとしていたら、突然突き上げられた。
最初はなにかが落ちてきたのかとも思ったが、横揺れになったところで地震だと思った。
外にでてみると、家の前の鯉をかっている生簀の水が、50cmくらいの波になっていてあふれだしていた。
道路も波打っていて、波が崩れたところでアスファルトが割れるのを見た。

いったん収まったところで、家族の無事を確認した。
家族は揺れた際、這ったりしながらも全員外にでたようだった。
「なにが起こったがぁろっかねぇ・・・。」などと話をしている際に、次の大きな揺れがきた。

このとき、これはニュースになるっ!と思い、カメラをとりにいこうとした。
しかし、玄関に入ったところで身動きが全く取れない状況になってしまった。
うしろから家族が
「はやく、そっからでれてぇ!」
(早くそこからでろっ!)
といわれて、あわてて這うようにして玄関から戻った。

地震などを山津波ということがあると聞いたが、ほんとうにその通りだと思った。
あらゆるものが波打ち、襲い掛かってくるように見えた。
こんなことが起こるなんて、思いもしなかったがとても貴重な経験だと思う。

< 知り合いのおじさん >

長岡から帰ってくる途中、濁沢を過ぎて地震にあった。
あわてて車を停めてしばらく様子をみた。
しばらく余震が続いていたが、家族のことが心配だったので早く帰りたい。
慎重に車をすすめていったが、旧山古志と長岡の境のところで大きく崩れていた。
遅れて何台か車がきたが、これ以上は進めない。
何人かまとまったところで、車をここにおいて歩いて進もうということになった。
車は移動できるよう、鍵をつけっぱなしにしておいた。
崩れた範囲が予想より大きくて歩くのに時間がかかった。
それに、余震がきて更にくずれたりしないか、びくびくしながら歩いた。
このときは、生きた心地がしなかった。

< 知り合いのおばちゃん >

そのときは晩御飯の支度をしていた。
最初にドーンという揺れがあって、なべが浮き上がったのをみた。
火はなべがこぼれたときに消えた。
あわててテーブルの下にもぐろうとしたが、いろいろなものが置いてあったのでなかなかもぐれず焦った。
揺れている間、冷蔵庫が倒れてきたり、食器棚からいろいろ落ちてきた。
ほんとにおっかなかった。
揺れが収まって、テーブルの下から出ようとしたら、今度は落ちてきたものでテーブルの下から出られなくなっていた。
とにかくとうちゃんを呼んで、物をどけてもらって引っ張り出してもらった。
2回目の揺れが収まった後、いろいろとものをどけながらガスの元栓だけは締めてきた。
とにかく、おっかなかったて。
(補足:いろいろと話を聞いたが、台所で夕飯の支度をしていた人達はとにかく火の元を何とかしようとした人が多かった。ゆれている中で消した人もいれば、元栓を先に締めた人もいた。夕飯時に火事が起きなかったのは奇跡的だと思ったが、こういうことをしっかりと出来たおかげだと思う。)

この日はいろんな話を聞いていて、寒い中にもかかわらず1時間半くらい話し込んだ。
これからの話についてはそのときはまだなにも話せる状況ではなかったが、とにかくみんな無事だったということに感謝してる、と口々に言っていた。

この頃、報道では様々な救出劇などを取り上げていた。
それは当然のことだと思うし、細かなところまで取り上げていたらきりがない。
でも、そのときにあった様々な出来事は、被災した当人にとってはとても経験したことないことばかりだったと思う。
いろいろな話を聞いて、それぞれの人にそれぞれの脱出劇があったことを知った。
頭では報道で言っていることが全てじゃないというのは理解していたつもりだった。
このことを頭で理解するのではなく、このときに初めて体験したような気がする。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 03, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その3~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その19 あわただしい一日

30日。

この日は朝から何かと忙しかった。

・知り合いの車屋さんが車を貸してくれることになったので、朝一で取りに行く段取りをする。
・お昼近くに兄貴2人が脱出後、はじめて入村し荷物を取ってくることになる。
・夕方、親戚がお世話になっている施設にお袋が昨日一泊していたので、交代する山兄Tを送迎する。

予定がばたばたと決まり、とにかく動き回った。

朝、車屋さんに行ってみると既に車が用意されていた。
このお店はおいらがガキの頃からの付き合いで、家の車のほとんどをここから買っていた。
お礼を言って、ありがたく車を借りることにした。
これでいろいろと動くことが出来る。

----------------------------------
(いまだから言えること)

この地震で避難したあとに連絡を取った際、そこの社長さんから
「自分の下の実家が空き家になっているところがあるから、そこに来ないか?いつまでいてもかまわないから。」
という申し出があった。
びっくりしたと同時に、本当にありがたい申し出だった。
しかし、避難所にいないと村での取り決めごとがわからなかったり、これからの取り決めなどをする際にいなかったりするのは非常にまずい。
そういう理由から、このお話は恐縮しながらも辞退させてもらうことにした。

長岡や新潟の親戚のところもそうだ。
お風呂を借してくれたり、自分がボランティアを行っているときにも部屋を空けて泊めさせていただいた。
なにか足りないものがあると大変だからといって、いろいろなものを差し入れしてもらった。
なかでも、ちょっと忘れられないことがある。
現地にいたとき、動き回ってへろへろになっていたときに、うちで取れたものだけどといって食べさせてもらった梨。
いろいろとまいっていて、精神的に疲れていたときに出されたあの梨は、いろんな意味で癒された。
あのときの味は、忘れることはできないと思う。

山兄Sは、高専時代の友人たちから寄付していただいたり、不自由だろうからと自転車を貸していただいたりした。
仲間同士で連絡を取り合って、集めたものを避難所に届けにきてくれた。
その夜、買ってきた缶ビールを飲みながら、ほんとうにありがたいと言っていた。

自分も会社の人達や大学時代の仲間、飲み屋で知り合った人達などから、ほんとうに多くの寄付をいただいた。
そんなに自分はたいしたことをしてあげたこともない、かえって迷惑をかけてばかりいた人達から、多くのものをいただいた。

ほんとうに困っているときに本気になって手をさし伸ばしてくれる、そんな人達がいる。
このとき、人とのつながりっていうのがほんとうに大切なんだということが身にしみた。

どうすれば手を差し伸べてくれた人達にどうすれば恩返しが出来るのかは、正直いって今でもわからない。
でも、その人達になにかあった場合、手をさし伸ばすのは自分の役目だと思っている。
----------------------------------

村に入った兄貴たちは、身の回りの貴重品やら、店の書類、あとすぐに使いそうなものなどを持って帰ってきた。
向こうの様子が知りたくて渡したカメラには、無残に変わり果てていた家の様子や、地肌がむき出しになっていた景色が収められていた。
変わることなどない思っていた、ガキの頃から見ていた風景が、壊れている。
この写真をみたときは、さすがにショックだった。

しばらく呆然としていたが、夕方までに寺泊にある施設に行かなければならなかった。
親戚に付き添っていたお袋と山兄Tを交代させるためだ。
その親戚の人は耳が聞こえない。
うちの家族は、昔からの付き合いなのでどんなことを伝えようとしているのかが感覚的にわかる。
しかし、知り合いのいない施設では、自分の意思を伝えることに不安を感じていたんだと思う。
そのため、なかなか行きたがらなかった親戚といっしょに、うちの家族が交代で数日間付き添うことにしていた。
たまたまの偶然だが、この施設においらの同級生が勤めていた。
最初の日に訪れたとき、うちのお袋は同級生に話しかけられたそうだ。
おいらが行った時はちょうどお休みだったらしいが、後で電話をしていろいろとお願いした。
実は、その同級生の実家も地震で倒壊してしまった。
家族はみんな無事だったからだいじょうぶだよ、とは言っていたが大変なことだ。
そんな状況でも、「自分の出来ることをやってくしかないよね。」と明るい声でいっていた。
強いな、と思った。

その日は帰ってきてから、疲れの見えるお袋を親戚の家に預け、おいらは避難所に泊まることにした。
この頃、人の出入りをチェックするため、名簿に行き先やいつ戻るなどを書くことになっていた。
お袋の外泊と、代わりにおいらが泊まる事を書いておいた。
基本的には入り口で手続きをして、面会の人を呼び出してもらうような形式にしていた。
防犯のためにも、こういった手段がとられていた。
混乱した状態では、どんな人が入ってくるかもわからない。
これは有効だったと思う。特に不審な人物が出入りしたと言うことは聞いていない。
この頃から、ようやくいろいろな仕組みが出来上がってきていたような気がする。

夜になりひと段落ついたところで、玄関のところにタバコを吸いに行った。
喫煙場所はここだけだったので、タバコ吸う人は皆ここに集まる。
よく会う人もいれば、数年ぶりに会う人もいた。
懐かしいなぁとお互いの近況を話し合ったあと、地震発生時の話になった。
皆、少し興奮気味にそのときの様子を話し始めた。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

11月 02, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その2~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その18 避難所の様子

29日。

朝飯を食べた後、8時過ぎに明徳の避難所に到着。
ちょうど食事を終えたようで、ちょっと落ち着いているようだ。
昨日言っておいた買い物については、まとめておいてくれたようだ。
衣服などは、救援物資できていたため下着などは不自由していないらしいが、くつろぐようなズボンがほしいとのこと。
また、その辺を歩くときの靴と細かいものを頼まれた。

とりあえず買い出しをするためにJASCOへ向かう。
買い物をしている途中で、余震がきた。こっちにきてから、余震は初めて。
店内が結構ゆれたのでちょっと怖かったが、周りの人たちは比較的落ち着いていた。
避難所に戻ってニュースをみると、震度は4近くだったそうだ。
自分のなかでは初めての震度だったが、地元の人に言わせるとこの前の地震からすれば怖くはないそうだ。
度重なる余震で麻痺しているかもしれないとも言っていた。

午後からは兄貴が親戚を施設に送り届けるために出払ってしまったため、避難所ですごすことになった。
この頃、避難所ではいろいろなことが急に決まって通達があったりしたため、誰かしら残る必要があった。
ボランティアをしようと思ったものの、こういう状況だったためやめておいた。

そんなわけで特に何をするわけでもなく、買ってきた本を読みながら時間を過ごす。
甥っ子と遊んだり、近所の人たちと話をしたりした。
甥っ子たちは割かし元気だ。友達が同じところにいるのが楽しいといっていた。
こういう状況でも元気なのはいいことだと思う。そして、ちょっとうらやましかった。
もし、自分がこの状況下に置かれていたら、どうだっただろう?
楽しい、なんて言えただろうか?
本人たちはあんまり深く考えていなかったとは思うが、ちょっとすごいな、と思った。

----------------------------------
(いまだから言えること)

親戚を尋ねて、他の地域の避難所を訪れたことがあったが、だいぶ雰囲気が違っていた。
子供たちが少ない地域の避難所はあまり活気がなかったと思う。
なんと言っていいんだかよく分からないが・・・
単純にいえば、診療所の待合所?みたいな感じ。
疲れているって感じではない。どちらかというとほのぼのしている。
でも。なんだか。

覇気がない。

こういう状況のとき、子供とか、若い力とかっていうのが本当に必要なんだなぁと思った。
明徳の避難所の場合、子供は比較的多いほうだったと聞いた。
元気な声でしゃべるだけでも、雰囲気は変わる。
子供たちはこんな状況でも元気だった。
正直、疲れているときに子供たちがはしゃいでいたりして、「頼むから静かにしてくれぇ~」と思ったこともある。
いらついたこともあった。
でも、あんなふうに無邪気に笑われたらかなわんわな。

また、ボランティアのひとたちが本当にいろいろとやってくれていた。
「おはよう」の挨拶とか、物を配るときに声をかけたり。
まわりのじいさまや、ばあさまがいっていたが、「声聞くだけでも元気になるねぇ。」と笑っていた。

笑うこと。
そして、そんな状況をつくること。

理屈とかじゃないんだな。ほんとに。
それだけで雰囲気がガラリとかわる。
こんな状況だからこそ、ほんとによくわかる。

クリスマスでケーキ配ったときも、たくさんの子供たちの笑顔が見れた。
他の人まで笑顔にしちまう。
すげー力だ。

単純かもしれないけど、ほんとに大事なことなんだ、と思い知らされた。
この地震があったなかで、一番感じたことだと思う。
----------------------------------

結局この日は、物資の搬入の手伝いや、周りの人達から地震の時の様子を聞いたりして過ごした。
あとは、家の用事を足しているうちにあっという間に時間が過ぎたような気がする。

買出しをするとき、少し足を伸ばして宮内の方までいった。
そこまで行けば金倉山が見えるからと思ったから。
でも、新幹線のところから見た金倉山は左側が大きく崩れ、いびつな形になっていた。
もっと近くまで行きたかったがあまり遅くなってもまずいと思い、そこまで行って帰った。

この日の夜、池谷地区の脱出時の様子をTVでやっていた。
そのときの壮絶な様子や、みんなで助けあっていたことを時系列にまとめて流していた。
中学の頃の1つ上の人がインタビューを受けて、そのときの様子を語る。
見慣れた場所が写っていたが、道は抜け落ち、山は地肌をむき出しになっていた。
山兄Sがいっていた、
「お前の見ていた風景はもうない。」
という言葉をTVを見ながら思い出した。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

11月 01, 2005

中越大地震を振り返って ~現地での出来事 その1~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その17 避難所到着

28日。

朝8時、埼玉出発。
晴れてはいるが、この季節になると寒いので、防寒をしっかりとしてから出発した。
関越道は地震のため、閉鎖されている。
通れるようにはなったらしいが、救助車両を優先して通しているため、一般車両は行きは来出来ない。
また、一般道は各所で寸断されており、どこが通れるかもよく分からない。
ただ、北陸道が長岡まで通ったとの情報が入っていたので、そちらを使うことにした。

関越から藤岡JCで上信道で長野を経由し、柏崎から北陸道に乗り換えて長岡へ。
さすがに10月の終わりともなると、長野は寒い。防寒をしておいてよかった。
柏崎を過ぎたくらいから、道がうねり始めた。ここにきてようやく地震があったことを実感し始める。
関越を使うよりだいぶ時間がかかったが、3時過ぎには長岡に入ることが出来た。

避難所となっている明徳高校はごった返していた。
玄関では見知った人たちがタバコを吸っている。
ちょうど、フリーマーケットに出そうと思っていたライターをごっそりと持ってきていたので、そこにいる人たちに渡すと意外なほど喜ばれた。
食べるものや着るものなどの物資はたくさん届いていたそうだが、やはりこういったちょっとした小物が喜ばれたようだ。

山兄Sに迎えに玄関まで迎えに来てもらい、中に案内してもらう。
体育館に避難した人たちは、下に毛布を引きその上にみんな座っていた。
やっと親父やお袋、兄弟たちに会えてすごくほっとした。
甥っ子たちは、ボランティアの人たちに遊んでいてもらっているようだ。
声で無事を聞いていたりしたが、やはり会ってみてみないとだめだ。
なにを話したか特に覚えてはいない。でも、ほっとしたのと運転疲れで、どっと疲れが出た。

すこし、横にさせてもらいながら周りを見渡した。
みんな毛布一枚分の自分のスペースで横になっていたり、ボーっとしていたりする。
体育館の入り口では、知らない人たちがいろいろ配ったり、物を運んだりしていた。
親に聞いてみるとボランティアの人たちだそうだ。
自分もボランティアをしようと思っていたので、親にそういうとボランティアセンターに行ったほうがいいといわれた。
幸い、ボランティアセンターは明徳高校のとなりだそうだ。

周りの人たちは横になっていたりしていたものの、そんなに疲れた風には見えなかった。
割とみんな元気そうだなぁとそのときは思った。
でも、今考えると地震の影響と続いている余震で、まだテンションが高かったのかもしれない。
ご近所の人たちとも話していたが、ほんとにいろいろ話してくれた。
普段はおっとりとしゃべる人が、地震のことを早口で話していた。
やはり気が張っていたのかもしれないと思う。

しばらくすると、食事の時間になった。
マイクで、「食事の時間になりましたので、決められた順番で取りに来て下さい。」と放送があった。
みな、ゆっくりと並んで取りに行っている。
なんだか、給食の時間のようだ。(というか、給食そのものだが。)

----------------------------------
(いまだから言えること)

聞いたところによると。

他の避難所では、どういう風な順番でもらいに行くか、なかなか決まらなかったそうだ。
明徳の話が他の避難所に伝わってから、決まったところがほとんどだったらしい。
なかには、結局最後まで順番が決まらなかったところもあったそうだ。
(ただ、本当かどうかはわかりません。人づてに聞いたものなので。)

でも、ひとつだけ補足として。

明徳は最初、虫亀地区のほとんどの人と梶金地区の一部が入っていた。
(後に虫亀地区のみの避難所となった。)
他の避難所では、大まかに各地区ごとに分かれていたものの、他の部落がいっしょになったところも多い。
また、虫亀という部落は他の地域と比べて密集度が高い。
もともと、まとまりやすいという住民性があったと思う。
このことは、後で聞いたボランティアの人たちの話でもいろいろ出てきたが、明徳避難所はなにかとまとまりがよかったそうだ。
(この話はほかにもいろいろあります。それについては別の回で。)
----------------------------------

この日は、親戚の家に泊めてもらう予定だったので、人が食事をもらっている間に避難所から出ることにした。
さすがに避難している人たちの食事をもらうことはできない。
明日、朝一でくるから何がほしいか考えておいてくれと、親に言ってその日は避難所を出た。

親戚の家で、途中で買ったコンビニ弁当を食べながら、地震の時の様子を聞いた。
長岡でも、川西(長岡駅から見て信濃川を渡ったほう)は比較的被害がすくなかったそうだ。
その日は食事をして、風呂に入らせてもらった後、すぐに眠った。

・・・つづく。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

10月 31, 2005

中越大地震を振り返って ~現地入り前 その3~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その16 避難所へ向かう準備3

・道路などが確保され始めた27日

北陸道経由での現地入りがなんとかなりそうになった。
昨日のうちに長岡にいる親戚に話をし、泊めてもらえるようにお願いをした。

とりあえず、この日も会社へ。

そんな中、また震度6の余震が発生。
山姉にメールを投げたら、すぐに返ってきた。

-------------
大丈夫(^^v 
-------------

・・・そか。
大丈夫なんだろう。

会社には、数日間現地でボランティアなどを行ってくることを伝え、休みをもらうことにした。
とりあえず、自分の寝る場所と交通手段が確保できたことを家族に伝え、なんとか行くことを了承してもらう。

夜になり、愛姉より避難所にいた親戚が病院に運ばれたことを聞いた。
連絡を取ってみたが繋がらない。とりあえず、連絡をするように愛姉に頼んだ。
その後、ほかにも持ってほしいものがあれば言ってくれと書いてメールをいれた。

夜になって山兄Sより連絡があった。

とりあえず、持って来てもらいたい物はあまりないとのこと。
すでに山兄Sの友人からかなり物資を供給してもらっており、おき場所に困るそうだ。
ただ、親父が食べ物について限定されている(すい臓をやられている)ため、それにあわせたものをこちらで買出しに行ってきてほしいとのこと。
また、衣類なども豊富にあるが、山兄Tの着るものがほしいとのこと。
(山兄TはSより背が低いので、ちょうどいいのがないらしい。)
食べ物についてはNGだそうだ。すでに一部ではあまってしまっているとのこと。
たしかに、報道でも一部隔離されたようなところ以外はあまりそういったことは言っていない。

あと、今日山兄Tはバイトに行っていたそうだ。
また、山姉も仕事に復帰している。
山兄Sは親戚と親の面倒をみていたそうだ。

長期戦となるのを覚悟しているとのこと。
山古志自体の復旧もどのようにしていくか決まるのは時間がかかりそうだ。

いろいろと話を聞いて明日自分がそっちに向かうことを言って、電話を切った。
この日は早く寝床にもぐったが、なかなか寝付くことができなかった。

-------------
(今だからいえること)

このとき、川口や小千谷のほうへの救援物資は滞っていた。
道路の復旧もできておらず、道路も渋滞していた。

比較的道路が早く復旧できた長岡地区へは、このとき既に多くの物資が届いていた。
ただ現地にいって分かったことだが、この時点では受け入れ状態も整っておらず、どこにおけばよいか分からない状態だったそうだ。
当然、どんなものが届いていてどこに置かれているかなどは把握しきれていなかった。
というより、そういった物資の流れもコントロールできるような状況にもなっていなかったと思う。
自分が現地に到着しても2日くらいは混乱状態で、組織がで機能し始めてようやく動けるような感じだった。

山古志の場合、全員避難となったということと、メディアに多く取り上げられたということ、そして避難したのが比較的道路の復旧が早かった長岡だったということから、物資が集中したという話を聞いた。
なんだか申し訳ない気持ちになった。
避難所でも物資が不足している地区の報道がでると、「なんだか申し訳ないようだねぇ・・・。」とため息を漏らしていた人が多くいた。

実際のところ、どこで何が不足しているかなどの状況を聞いて振り分けられるようになったのは、ボランティアをしていた自分の感覚だと地震から一週間くらい経ってからのことだったんではないかと思っている。

なかなか改善されない状況を報道ではいろいろと非難していたが、それはよくないことだと思う。
実際に物資を分けたりする現場にいた一人としては、「だったらここにきてやってみろ!」といいたい。
非難するのは容易い。事実、自分もそれまではその一人だったと思う。
ただ、実際に現場に入ってみると分かるが、こうすればいいのに・・・と思ってもやれないことがたくさんある。
みんな、こうすればもっといいんじゃないか、と考えながら動いていた。
真剣だからこそ、ぶつかりあうこも何べんもあった。
ただ、わがままを言って怒ったりするんじゃない。
もっとよくしたいのにどうにもならなくて怒っていた。
それがわかるだけ、やるせない思いをすることがたくさんあった。
みんな一生懸命にやっていても、どうにもできない状況だってある。
そんなことがたくさんあった(そして今でもある)ことを知ってほしいと思う。

だから、報道は現実に起きていることや事実を伝えることで十分だと思う。
へたに同情めいたことをいったり、どうにもできない部分に怒りをぶつけるようなことを簡単に報道では言ってはいけないことだと思う。
報道をみてどう思うかは、それを見た人たちなのだから。
-------------

・・・つづく。

| | コメント (3) | トラックバック (2)

10月 30, 2005

中越大地震を振り返って ~現地入り前 その2~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その15 避難所へ向かう準備2

・安否確認ができたの25日

この日は会社を休ませてもらって、ひたすら家族からの連絡待ちと、被害状況の情報をかき集めることに専念した。
また、親戚や愛姉に対しての情報役として、いろいろと情報交換を行う。

TVをみると山古志の状況が結構写ってくるようになった。
中学校での避難の様子を中継している際、よく知った顔がかなり映っていた。

家からの連絡がなかったので、午後から会社にいくことにした。
そんなに立て込んだ仕事はなかったものの、何かあったときのための準備を行うためだ。

会社で準備をしていた際、ようやく家族と連絡が取れた。
何はともあれ、無事だったことを聞いて少しだけほっとした。

夜になって、山兄Sが電話をかけてきた。
状況を改めて聞くと、いろいろと教えてくれた。

・山古志村虫亀地区の住民は全員無事。
・大きな怪我をした人もなし。ただ、やかんの湯でやけどした人と、指を切った人がいた。
・現在、明徳高校が避難箇所になっている。
・うちの家族全員そろっている。みな元気。
・物資は不足しているとは思うが、それ以上に脱出できた安堵の方が大きい。
・一切情報がなかったため、自分たちがどのような状況におかれていたかも分からない。
・カセットコンロなどを持っていこうかといったところ、それを使うスペースすらないとのこと。
・今後のことも、うちのことも何もまだ決められない。明日の避難場所もどうなるか分からない。

また、村の様子を聞いてみると以下のようだったという。

・虫亀地区は地震直後、他の地区につながる道がすべて寸断。
(埋まったのではなく、崩れてなくなったとのこと。)
・虫亀地区での家の全倒壊はなし。ただ、小屋の半壊はいくつもあった。
・実家、および山兄Sの自宅は崩壊を免れた。が、たぶんもう住めない。
・たけぱんだあてに携帯をかけてきたのは闘牛場のところ。ただし、その後は一切だめだった。
(24日早朝につながったのはある意味奇跡かもしれない。)
・何人かは徒歩で山中に抜ける道をたどって、途中で川を渡り、山古志中学校へ。
・その後、闘牛場のコンクリートの駐車場方をヘリポートとして、そこから順次脱出。一旦山古志中学校へ。
・山古志役場は傾いていた。無線は最初の地震でだめになったらしい。
・虫亀地区の報道が少なかったのは、崩壊、けが人などがほとんどなかったためだろうとのこと。

山兄Sはとにかく今は、ゆっくり休みたいといっていた。
とりあえず、つかれていそうだったので電話を切った。

・ひたすら待機していた26日

いつでもいける準備をしていたが、家族から
「避難所に来てもらってもどうしようもない。余震でお前まで怪我とかされたら、こっちもほんとうに何もできない。気持ちはうれしいがもう少しまて。」
といわれてしまったため、普通どおりに会社に行った。
会社のほうは、そのとき抱えていた仕事が一区切りついていたものの、なにかあったときのために引継ぎをできる準備をした。
でも、実際のところ、仕事には全然身が入っていなかったと思う。

愛姉(愛知にいる姉)から、昨日テレビでお袋が血圧を測っているところが写っていた、と連絡があったので少しは安心していた。
現地の家族の様子も電話を通じていろいろ聞けたが、TVをみても話をきいても実感がわかない。
道路の復旧もできていないため、避難所にたどり着けるかもわからない。
でもすぐにいけるように、いろいろと情報を仕入れることに専念した。

・・・つづく。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

10月 29, 2005

中越大地震を振り返って ~現地入り前 その1~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。
ここからは、自分が避難所に向かうところからのお話がメインです。
現地で自分の思ったことや、考えたことも交えてまとめます。

--------------------------------------------
その14 避難所へ向かう準備1

・地震発生当日。
地震が発生したとき、おいらはツーリングの帰りで、コンビニでジュースを飲んでいた。
ちょっと大きめな揺れがあったなぁと思った20分後位に愛姉(愛知にいる姉)からとにかくTVをみろ!といわれる。

しばらくして家に着いてTVをみると、新潟で大きな地震があったということが報道されていた。
長岡の大手通で、信号のところでおばちゃんがおろおろとしている映像が繰り返されていた。

9時頃を過ぎると、道路などがいろいろなところで寸断されたりしているという情報が出てきた。
新幹線も脱線したらしい。
電話をしてみたが、繋がらなかった。
こういう状態だから仕方ないと思ってあきらめた。

思った以上に被害が大きかったが、山古志の名前は出てきていない。
たいしたことはないだろうとそのときは思っていた。
ツーリングの疲れもあったし、明日の朝一で起きれるようその日はすぐに寝た。

・地震発生翌日の24日

朝5時に起床。
TVをつけると相変わらず地震の報道が休まず続いていた。
そんな中、音信普通となっている地域として山古志の名前が出ていた。
なんとなく嫌な感じがしてきた。

そうしてTVを見ていたとき、山姉からの一報があった。
(中越大地震を振り返って ~地震後 2日目 その1~を参照してください。)
その口調から、のっぴきならない自体になっているということにようやく気づく。

とにかく、現地に向かえるように準備を行う。
こういうとき、車よりも機動性に優れるバイクで行くことを考え、さらに物資の積み込みができるようにボックスを取り付けることにした。
様々な状況を考え、以下のものを買ってきた。

・食料としてカロリーメイト50食分とサラミ数本。
・液体絆創膏、消毒薬、風邪薬。
・エマージェンシーシート(緊急用保温シート)
・細引き(登山とかでも使われるロープ)
・シグボトル(ガソリンいれ)

あと、防寒着やら冬用グローブなどの寒さ対策品などを自分用に数点。
そのほかにもいろいろあったが、現地にも入ることを想定して、いろいろ準備した。
(携帯ラジオ、手動の携帯用の充電器など。)
現地での宿泊を考えて、友人からテントを借りた。
バイクに荷物がたくさん詰めるよう、友人に協力してもらい、ボックスを取り付けたりもした。
その間ずっとラジオを聴いていたが、山古志の情報は入ってこない。
現地の様子が分からなかったので、ただただ心配だった。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 28, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 3日目 その4~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その13 避難所 最初の夜

脱出後、バスで避難場所となった明徳高校に到着。
親父、お袋、山兄T、山兄S4人が、先に飛んだ山姉と子供たちより先に着いていた。

いろいろなところから届けられる救援物資や、救援隊の人々・・・。
様々な人が入り混じり、大騒ぎとなっていた。
この時点でのボランティアはまだ少なかった。このときは大体20名くらいだったそうだ。
でも、村役場の人たちはここから具体的に組織として動きはじめていた。

夕方の午後7時。
明徳に着いて最初の食料配布が行われた。
役場職員とボランティアの人たちが配る準備を整えたので、Sさん(村役場職員。以後、明徳避難所のリーダー的な存在になる女性)が、ハンドマイクでアナウンスをした。
「各自1個ずつのパンと飲物があるのでとりに来てください。充分にあるのであわてなくて大丈夫です。」

ここでちょっと危なくパニックになりかけた。
我先にと殺気立った村の人たちが、一斉に殺到しかけたからだ。
このとき、ボランティアの人たちも役場の職員も雰囲気に飲まれてしまい、固まってしまった。
この状況をみて、村の人たちと役場職員の間に割って入ったのが消防団員数名。
その中の一人が、ハンドマイクを奪って叫んだ。

「村で炊き出しんときは子供、年寄り、怪我人とかを先にして順序よくやったろ!みんなの分があるんだんが、1部んしょから順番に家の代表んしょが人数分とりに来いて!!それでも充分間に合うだけあるっけ、順番に並べいやっ!!!!」
 (村で炊き出しをしたときは、子供、年寄り、けが人を先にしてやっただろう!みんなの分があるから1部(注:虫亀は4区に分かれている。それらを1~4部と呼んでいる。)の人たちから順番に家の代表の人が人数分取りに来い!!それでも十分間に合うだけあるから順番に並びなっ!!!)

ここで騒然としたものの、ひたすら叫び続けた。
数分間かかってようやく列ができるころ、Sさんはパニクってしまって半べそをかいていた。
ご飯を配り終えたあと、Sさんは消防の人たちに「ありがとう」といってまわったそうだ。
このときほど、パニック状態の集団の怖さを感じたことはなかったと、役場の人たちは言っていた。

山姉と甥っ子たちが到着したのは、夜の10時頃だった。
そのあと、ようやくまともに弟(たけぱんだ)と電話で話ができた。
全員がそろったことでようやくほっとした。

そのときにあったことだが、今だから話せる話。
到着したときだったか、そのあとだったのかよく覚えていないそうだが、何人かの人がうちの甥っ子たちのために食料を少し余分に取っておいてくれたらしい。山姉は、それらの食べ物をこっそりと渡してもらった。
「内緒だけど、これ食べてね。」
と言って渡してもらったときは、本当にうれしかった。
ほんとに感謝するばかりだった。
でも今考えてみると、ほんとうは自分の食べる分を分けてくれたのかもしれないのかな?と、思うことがあるそうだ。
あんな状況下でも、そういうことができる人がいる。
ほんとうに人ってすごいね、と山姉は思ったそうだ。

食事ことがあって、12時過ぎに行われた夜の部落会議で、食料をもらいに行く順番をどうするか話し合った。
各部が順番に取りに行くようにし、食事ごとに順序を入れ替えるような仕組みにすぐに決まった。
ここの決まりを次の日にみんなに伝えたところ、それ以降、食事に関しては一切パニックは起きなかったそうだ。
結局、会議などが終わって、静かになったのは夜の2時以降だったと思う。
 :
 :
 :

ここまでが、震発生から脱出までの3日間の間に起こった出来事だそうです。
これは、比較的被害の少なかった虫亀地区に住んでいた自分の身内と、よく知る近所の人たちから聞いた生のものです。
同じ村内でも他の地区ではもっとすさまじい経験や、辛い目にあった人たちが大勢いました。
それについては、自分のほうでもあまりよく分からないので、書くことはできません。
なにか機会があれば、書くかもしれませんが。

このとき、村民全員避難を決断したことで、その後の避難生活は他の地域に比べてだいぶよかったと思います。
その後の避難所の生活については、自分も現地入りしていたので、自分の目線からみた避難所の様子を明日以降、数回に分けてまとめます。
以前このブログの”新潟中越地震”のカテゴリーにも載せていたものとダブるところがありますが、いままで書けなかった部分も交えて、再掲載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 27, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 3日目 その3~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その12 脱出3

地震後3日目の午後1時。

全員ヘリで脱出するということになった。
最初に乗せられたのは、お年寄りや子供たち。
その中に、うちの甥っ子二人と山姉もいた。

< 甥っ子(兄)の証言 >

最初に来た2機に乗った。
乗るときに自衛隊の人からいろんな注意を教えてもらった。
耳がつんとするかもしれないとか、気持ち悪くなるかもしれないなど。
なんか奇妙な感じだったけど、全然なんともなかった。

ほんとうは後ろが開くタイプに乗りたかったけど、別のヘリに乗せられた。
こんなことを考えている位だったから、余裕があったのかなぁ。
空を飛んでいるときは、ぜんぜん怖くなかった。
でも、あんまり景色は見れなかった。
途中山とかちょっとだけ見れたけど、上からみるとどこなのかは全然わからんかった。

-----------------------------
脱出した村民は、最初はばらばらなところに降ろされた。
ヘリのほうでもやはりパニックだったらしい。
山姉と子供たちは、最初小千谷の方に到着した。(午後3時頃)
山姉は到着してすぐに、弟(たけぱんだ:おいら)に連絡をいれた。

(弟)「もしもし?」
(姉)「あ、つながったぁ~」
(弟)「お。電話繋がるようになったんか?脱出できたんか?」
(姉)「いま、ヘリから降りたところ。」
(弟)「みんな、無事だか?」
(姉)「うん。なんとかね。でも、今は子供たちだけ。」
(弟)「他のみんなは?」
(姉)「別のヘリで来るって。でも、ここ小千谷なんだよなぁ。」
(弟)「え。なんかあるの?」
(姉)「いや、長岡に避難するって聞いたから・・・。」
(弟)「・・・まぁいいさね。無事だったら。親父とお袋は?」
(姉)「たぶん、次のあたりでくると思う。」
(弟)「わかった。あ、そうだ。山姉の実家の番号教えて。俺から連絡入れとく。」
(姉)「あ、そだね。んじゃメモって。えっとxxx-xxx・・・」
(弟)「あい。わかった。こっちから連絡入れとくから。電池もったいねーっけんあんま携帯使わんでの。」
(姉)「そだね。んじゃお願いするわ。」
(弟)「ん。わかった。じゃ、みんなと合流できたときに、また連絡くれ。」
(姉)「あいよー。わかった。」
(弟)「気ーつけれの。」
(姉)「うん。それじゃ。」
(弟)「じゃ。」

その後のグループも小千谷、長岡と交互に運ばれたようだった。
そして、約一時間後の午後4時。
山兄Tと山兄S、親父、お袋が長岡工業に到着した。
一息ついたところで、山兄Tは弟(たけぱんだ)に連絡をいれた。

(弟)「もしもし?」
(兄)「今、工業についた。親父とかもいっしょだ。」
(弟)「そっかぁ。よかった。山姉はいっしょか?」
(兄)「いや、いない。先のヘリでいったはずだが。」
(弟)「小千谷に降りたっていってたぞ?」
(兄)「小千谷ぁ?なんで小千谷なんだ?」
(弟)「わからん。でもそう聞いた。」
(兄)「ふーん。そっか。たぶん、これから避難所が割り振られるはずだから、たぶん移動するな。」
(弟)「パニックだな。」
(兄)「しかたねーこって。こんげん状況んがぁだっけん。」
(弟)「わかった。まぁいいや。電池もったいねーっけん切るぞ。」
(兄)「ん。わかった。」
(弟)「あ、ちと待て。親戚んち(注:お袋の実家)の番号教えろ。」
(兄)「ん?あぁそか。xxx-xxx・・・」
(弟)「わかった。なんかあったら被災ダイヤルの171にいれとけ。」
(兄)「ああ。じゃ。」

とりあえず連絡を入れた後、虫亀の人たちは避難場所となる明徳にバスで移動することになった。
このときは、他の部落は大体脱出できていて、虫亀は最後のほうだったとのこと。
受け入れる避難所も相当なパニックだったようだ。
結局、家族全員がいっしょになれたのは、明徳について夜10時を回ったころだった。

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 26, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 3日目 その2~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その11 脱出2

地震後3日目の午後1時。

ようやく脱出が始まった。
朝に打ち合わせたとおり、優先して脱出させた方がよいと思われる人たち(けが人、妊婦など)をヘリで搬送することになった。
その人たちを部落の上の方にある闘牛場へ運んだ。
(余談:このとき、ちょうど錦鯉を見に来ていた外国人が数名いた。その人たちの国では地震がほとんど起きないらしく、ものすごく驚いていたそうだ。そのうちの一人はかなりのパニック状態に陥ってしまい、ヘリのところへ連れて行くのも大変だったとのこと。この人たちは村のお客さんということで、優先的にヘリに乗せた。)

< 山兄Sの証言 >

このとき、俺は搭乗係をやった。
家族をばらばらにしないため、地元の人間の顔を知っている自分がヘリの定員に合わせて載せる順番をその場で指示してくれ、と自衛隊の人から頼まれたからだ。
最初にやることになったとき、自衛隊の人にとにかくパニックにならないようにしてくれといわれた。
やはり、こういう極限状態にあるときは、少しでも知った顔の人がやったほうが安心できるというのもあったからだと思う。

警察の人には、「俺を先にしろとか」言われたら我々が抑えるから、適切に指示を続けてください、といわれた。
内心はびびっていたが、ほとんど何事も無く最後まで乗せることができた。
(余談:実は「俺が先に行く」とか言う人がいたそうだが、ちょっと声をかけただけで収まったそうだ。他の人はそれを見てパニックになることもなく、おとなしく指示に従っていたそうだ。)

ヘリで誘導していた際、
「まるで映画みたいだ・・・」
とつぶやいたら、自衛隊の人が
「有視界のこの近距離で、別々の部隊(海自、空自、陸自、警察、消防など。しかも日本中から集まっている)がヘリを飛ばしているなんて初めて。パイロットはものすごく神経すり減らして飛んでいるはずだよ。こんなのは戦争でもない限りないんじゃないかなぁ・・・」
と最後のほうで聞かされた。

実際、有視界でヘリが飛び交うなんてことはないそうだ。
数百メートル離れているといっても、ヘリにとっては鼻先にいるようなものらしい。
(数百メートルを数十秒で飛ぶへりで、しかもお互い向かってきたりしたら・・・。そりゃそうだと思う。)
更に、人を乗せてピンスポットに着陸するだけでも大変らしいのに、周りに一緒に訓練した事も無い部隊の人が飛んでいるわけだから・・・。

夕方になり、小雨もぱらついてきた。
このままだと、次の日になるかも知れないとのことだったが、なんとか全員脱出することができた。
俺は最後から1つ前のヘリで脱出した。
ほっとしたがすっかり声はがらがらにかれていた。
結局、この仕事をしていたため、自分の荷物は準備はしていたが、取りに行くことはできなかった。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 25, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 3日目 その1~

過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その10 脱出1

3日目の朝。
全村避難が決定したと連絡が来て急にあわただしくなった。
いつ決まったかはわからないが、虫亀に通達が来たのは25日の朝8時ころだったと思う。
虫亀地区は闘牛場の駐車場がヘリポートとなった。

すぐにどういう順で避難させるか部落役員と消防団で話し合いになる。
怪我人、病人、妊婦、子供とその保護者、後は残りのもの、最後は部落役員と消防団、という順で避難することになった。
名簿を2部作成しヘリポートと避難所の間で行き違いのない様にする、などすぐに決定した。

その日の朝は、避難用の名簿作りでおおわらわとなった。
その時点で虫亀には約400人ほどいた。
中には錦鯉の買い付けに来ていた外人の方も数名いた。

各自家に最低限の荷物のみ取りにいこうとなった。
余震が続いていたため、行く時は絶対に一人でいかないこと、近所の人と一緒にいって必ず複数で行動することを必ず守ってもらうようにとの話があった。
そして、午前中に準備してくること、無駄なものは持っていかないこと。
これらのことはきちんと守られたが、一つだけもめたことがあった。

ペットのことだ。

ペットは連れていけないと言っておいたが、家族同然と思う人たちにとってはやはりきびしい。
しかし、現状をみればしかたない。
泣く泣くあきらめてもらうよりなかった。
紐をはずしたり、えさをたくさん置いてきて出てきた人が多かった。
特に牛(闘牛)を飼っていた人たちは特に不安そうだった。

お昼頃になると、消防の人たち以外の応援も駆けつけてきた。
陸海空の自衛隊、警察、海上保安庁など、様々なところからの人員と、空を飛び交う見たこともない数のヘリコプター・・・。
これだけの数が集まっているのをみると、自分たちが置かれている状況がただ事ではないということを思い知った。

・・・つづく

| | コメント (2) | トラックバック (0)

10月 24, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 2日目 その4~

久しぶりに地震時の様子をまとめたものをアップします。
過去の分もまとめて読みたい方は、右にあるカテゴリーの”そんでもって山古志”をクリックしてください。

--------------------------------------------
その9 脱出開始

地震2日目。

< 消防団員として動いていた山兄Sの証言 >

朝から部落の役員、消防団で話し合い。
今までの状況から見て、簡単には外部からの支援が来ないと想定されるという結論になる。

食料、水、発電機と燃料のガソリン、避難所とした小学校で寝るための布団、ストーブと灯油、病人と怪我人のための薬。
さまざまな必要と思われる物資を確認し調達に走る事にした。
そこに初めて外部より本職の消防隊が到着した。福島の須賀川隊の方々。
地震後、初めて外部と確実に通信できる無線を持ってきていたということで、みんなに安堵感が広がった。
しかし、消防の隊の人から、この状態では救援がいつくるかわからないから、隔離された状態がしばらく続くかもしれないといわれ、なおさら先ほど検討していた必要物資の確保が急務ということになった。

とにかく足りなかったのはガソリンだった。
玄米は稲刈り後のため大量にあったが、それを精米して炊けるようにしたり、飲料水を井戸からくみ上げる際には機械を動かす。
夜間の明かり確保のほかにもさまざまな場面で、発電機を回して機械を動かす必要があり、そのためのガソリンの確保する必要があった。

あとは、怪我人と病人のための薬。
大きな病院施設がない村のため、治療に必要な薬の予備などあるはずもない。

この2点の確保は難しく、ヘリでの緊急支援を消防隊の方より要請してもらうことにした。

物資で間に合うものは部落内の各家から持ってくる事にする。
ただし、絶対に一人では家に入らない事をみんなに徹底するように伝え、高齢者世帯などのついては消防団がいく事にした。

とにかくがむしゃらに動いていたが、肝心のヘリでの支援物資が一向に着く気配がない。
部落役員、消防団の人達に焦りが出始めてきた。
この時点で、外部へ避難になるやも知れない、という話が出始めたと思う。

2日目の炊き出しは病人、怪我人、子供、高齢者、元気なもの、順序正しく食べていく事が自然と出来ている。
まだパニックにはなっていない、これが後に避難所で生きる事になる。

< 消防団員として動いていた山兄Tの証言 >

*おおまかなところは、山兄Sといっしょ。個人的な部分のみ抜粋。

少し落ち着いたところで、再度外部に連絡を試みることにした。
弟(たけぱんだ)が下手にこっちに向かってこないように、釘をさしておいたほうがいいと思ったからだ。
なんどか電話してみたが、やはり電話は無理。
仕方がないので、携帯でメールをすることにした。
---------------------
ミンナだいじょうぶだぞ いきてるぞ
まだ危ないから来るな!
山古志への道は全て崩れている。
---------------------
とりあえず、こうメールしておけば迂闊なことはしないだろうと思った。
ただ、確実に送られていることが条件だが・・・。
(余談:このメールがなければ、おいらはたぶん現地に向かっていたと思います。この時点で既にいろいろと物資を買ったりバイクをいじって準備もしており、いつでもいけるようにはしてありました。)

夜は各家庭から持ち寄った野菜、米、肉などで雑炊を作って食べた。
昼間はおにぎりだけだったが、夜は少しでも暖かいものを食べようということになった。
やっぱり温かいものを食べたら、少しは落ち着いた。
そんな中、ラジオで山古志は隔離されていると報道されていることを知り、いずれ助けがくると考える事が出来るようになった。
しかしこの間も余震は続き、不安はぬぐいきれなかった・・・。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 23, 2005

地震から一年

地震が起きてから、今日で一年。
まず、あのときにお亡くなりになられた方々に対して、ご冥福をお祈りいたします。

ほんとにいろいろなことがあって、多くのものを失って。
住む場所も生活も変わってしまって。
直接、被災された方々は本当に大変な思いを現在もしていると思います。

自分は直接被災したわけではありません。
でも、身内や知り合いが実際に被害に遭い、友人も事故で亡くなりました。
やれることがあれば、いろいろやろうと思うものの、やはり時間の経過とともになかなか動かなくなりました。

ほんとはいっぱい書こうと思ったんですが、いろんなこと思い出してしまいました。
ちょっと、書くのきつくなってきたんで、明日以降にします。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

10月 21, 2005

テレビ

今、NEWS23でヤーコンの話をしている。
顔を知っている人も何人かいた。
みんな一生懸命だ。

自分は地元を出てきた人間だけども、根っこの部分は村人なんだろうなぁと思うことが最近多い。
やっぱり村は好きだし、なんかしていければいいなぁと思う。
たいしたことはできないけど、ちょっとしたことでもいいかな。

また、今年もサンタさんします。
青年会の方でもいろいろと動いているようですが、忙しいせいかなかなかまとまらないようです。
来月また行くので、そんときにでもいろいろとやってくるつもりです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

10月 16, 2005

写真アップしました。

ずいぶん時間がたちましたが、お盆にバイクで行ったときの写真をアップしました。
改めて被害の大きさ、自然の力のすさまじさを実感しました。

もうすぐ一年経過しようとしていますが、主要道路の開通もしていません。
住居に関しては一部が戻れるようになりつつありますが、今年取り壊すのがやっとというところもあります。

うちも来月に取り壊しが決まっています。
ただ、家をいつ建てるのか、それにどこに建てるのかも決まっていません。
ほかにも、いろんな問題が山積みです。

でも、確実にいろんな方向に動いてます。
悪いところもありますけど、もちろんいいこともあります。
復興は少しずつかもしれませんが、進んでいることは確かです。

もうすぐ一年ということで、いままでなかなか書けなかった話を少しずつしてみようと思っています。
いい話もあれば、あまりいい話でないものもありますけど。
ただ、本当にあったことだけを書こうと思っています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

10月 02, 2005

おもひでせいり

実家に帰ってきました。
取り壊しが決まったので、昔のものをちょっと整理してきました。

既にある程度片付いていたのですが、昔自分が使っていた部屋(今は山兄Tが使っている)はほぼ手付かずのまま。
もともと汚い部屋が地震で更にめちゃくちゃに・・・。

ともあれ、部屋の中をお片づけ・・・
昔の文集やら、写真やらをみつけては、「うわぁ」とか「なつかしいなー」とかひとりでわめきながら、いろんなところをひっくり返していました。
ほんとはいろいろもっていきたいところだけれど、さすがに全部はムリ。
いくつかの文集と写真、そして昔のおもひでの品などを持って帰ることに。

親父はいろいろと分別しながら、片づけをしていました。
あと、お祓いとかしてもらう準備をしたり。
散らかっている台所や本などは、そのまま一緒に取り壊してもらうとのこと。
だいたい一日、細かいものの分別なんかをしてすごしました。

帰り道。
知っている家が数軒壊されていました。
そのあとにどれくらいの家が建て直されるのかはわからないけど。

もう一回くらいいくつもりです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

8月 24, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 2日目 その3~

その8 そのときの子供たち

地震発生時、大人たちは何とかしようと必死だった。
もちろん、子供たちも子供たちなりにいろいろ考えていたようだ。
当時小学校6年生だった甥っ子が、そのときの様子をいろいろ話してくれた。

< 甥っ子(兄)の証言 >

最初にみんなで集まったときは、さっきの地震すごかったねぇとか、家はだいじょうぶだった?ということをみんな言ってた。
やっぱり、地震のことばっかりしゃべっていた気がする。
他の部落の友達とかが心配だったけど、連絡できなくてもどかしかった。

小さい子達は、ただただビックリしている子と、すごく怖がっている子がいた。
みんなお母さんとかにしがみついていた。

1日目は、車の中にあった紙とペンで遊んでた。
暗かったのと、余震がおっかなかったので、あとは何をしてたかはあんまり覚えていない。

次の日になって、明るくなったらすこし落ち着いた。
みんな家のことはすごく心配していたけど、次に心配だったのはゲーム機。
つぶされていないだろうか?つなぎっぱなしだったけどだいじょうぶだろうか・・・?
やっぱり、身近なものが気になってしようがなかった。
(余談:このときの教訓として、甥っ子はあれからゲームをしない間はケーブル類は必ず外すようにしている。簡単に持っていけるようしておくため、だそうだ。)

朝、小学校の校長先生と、中学校の教頭先生が来てくれた。
大人の人たちと話したあと、みんなを集めて
「大人の人たちも一生懸命なんだから、迷惑かけないようにね。」
みたいなことを言っていた。あと、大きな子たちには
「年長さんなんだから、小さい子供たちを頼むよ。」
と言っていた。
ぼくは年長だったので、いろいろと気をつけなきゃと思った。

昼間はすごくヒマだった。
非難するとき、ゲームやマンガ本を持ってきていた子がいた。
地震が起きたときちょうど手に持っていて、あわててそのまま持ってきてしまったみたいだった。最初はみんなで、貸し借りしていたけど、あっという間に飽きてしまった。
ぼくは、なにも持ってきていなかったから、ちょっと肩身がせまかった。
なんとなくだけど、手になにか持ってないと落ち着かなかった気がする。

遊んだのは小学校の体育館とグランドだけだった。
でも、あんまり騒げないなぁと思ったし、もっと他のところへ行きたかったけど、やっぱりここにいなくちゃいけないと思った。
小さい子達がヒマそうにしていたから、一緒に遊んだ。
でも、遊ぼうとしてもお母さんが離さなかったこともあった。
じゃんけんしたり、鬼ごっこをしたりした。
あんまり遊ぶ道具はなかったけど、意外といろんな遊びができるなぁって思った。

普段だったらヒマになったら昼寝とかしたけど、それはできなかった。
ぼくは一回寝ると簡単に起きないから、寝ている間に地震が起きたら、逃げられないと思ったから。
寝ちゃだめだと思って、眠いときもあったけど寝なかった。

とにかく家が心配だった。一回は戻りたかったけど戻らなかった。
(余談:一部の子は親たちと一回家に戻ったようだが、甥っ子は戻らなかった。小さい子たちが小学校に残っていたからだそうだ。)
あと、他の部落が大変だと聞いて、友達がどうなっているかとても心配だった。
でも学校の心配は全然してなかったな。(笑)

・・・つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 23, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 2日目 その2~

その7 外からの応援

山姉が電話で話すことができたことを家族に伝えた。
とりあえず、連絡が取れたことで、少しだけほっとしたそうだ。

しばらくすると、朝ごはんの炊き出しが始まった。
人数を確認し、どれくらい炊けばいいのかなどを話し合う。
米などは昨日いろんなところから集めてきたものを使った。
とりあえず、おにぎりを作ろうということになり、女の人たちはその作業におわれた。

炊き出しをし始めて、しばらくたったときだった。
外部の消防隊の人が2人、小学校に到着した。
地震後、初めて他の地域からきた応援だった。
まず最初に区長とけが人の有無、被害状況を聞き、災害本部に連絡をいれる。
そして必要なものや、優先して救出しなければならない人がいないかを確認し、現状ではそんなに差し迫った状態の人がいない旨を伝えた。

外部から情報が入るようになって、ようやく自分たちが置かれている状況を知ることができた。
中越地方で大規模な地震があったこと。
交通網、連絡網に壊滅的なダメージがあったこと。
そして、山古志だけでなく、そのほかの多く地域が孤立状態になっていること・・・。

< 山兄Sの証言>
聞かされた状況は、想像していたものよりひどかった。
けど、周りの状況が聞けたこと、救助の人がここまで来れたこと、そしてなにより外部との連絡ができるようになったことに、すごく安心した。
どうなるかは、まだなにもわからない。
でも、救助に動いているということが分かっただけでも気持ちの面ですごく楽になった。
ちょうど炊き出しができたころだったので、きてくれた消防の人たちと一緒におにぎりを食べた。
このとき、少しだけ人心地ついた気がした。

救助の人たちが来たとみんなが知ったとき、空気がだいぶ変わったそうだ。
みんな不安だったのが、すこしだけ和らいだからだと思う。
このとき、すでに全員で村外に非難するかもしれない・・・という話もあった。
ただ、余震が続く状態でどうやって脱出するのか?
外部からの本格的な救助はいつになるのか?
どんな状況にこれからなっていくのか、だれもわからなかった。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 22, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後 2日目 その1~

その6 つながった電話

地震発生から11時間後。
朝になったが、状況はなにも変わらない。
余震などもあったため、みんなまともに眠れなかった。

他の人からの情報で、部落の上の方にある闘牛場のほうで携帯がつながったと聞いた山姉が、外部との連絡を試みる事にした。

朝5:50。
県外にいる弟(私→たけぱんだ)にまずは電話をかけてみる。
数回のコールでつながった。

(弟)「もしもし?」
(姉)「あー、よかったぁ。つながったぁ。」
(弟)「あー、やっとつながったぁ。だいじょうぶか?みんなは?」
(姉)「だいじょうぶ。みんな無事。」
(弟)「よかったぁー。そっかみんな無事らか。」
(姉)「だいじょうぶらて。みんなぴんぴんしてら。」
(弟)「怪我人とかいねっか?」
   (→怪我人はいない?)
(姉)「火傷したしょと、指怪我したしょがいたけど、だいじょうぶ。命に関わるようんがぁはねぇんだん。」
   (→火傷した人と、指怪我した人がいたけど、だいじょうぶ。命に関わるようなことはないよ。)
(弟)「村んようすはなじら?」
   (→村の様子はどうだ?)
(姉)「ひどいて。ほんにひどいて。道とかは割れてるし、そこらじゅういっぺ崩れてるし。」
   (ひどい。ほんとにひどい。道とかはわれてるし、そこらじゅう沢山くずれているし。)
(弟)「今、ニュースで見てるがぁけど、孤立してるが?どっか抜けられんがぁか?」
   (今、ニュースをみてるけど。孤立してるのか?どこか抜けられないのか?)
(姉)「だめらの。ほかんとこ行く道みんな崩れたみてだ。」
   (だめだね。ほかのところにいく道はみんな崩れたみたい。)
(弟)「そいがか。んじゃ、電気もだめらな。水は?」
   (そうか。んじゃ、電気もだめだね。水は?)
(姉)「電気は地震後からだめ。水はなんとかなってる。」
(弟)「わかった。とにかく動きあったら連絡くれ。」
(姉)「うん。」
(弟)「愛姉には俺が連絡しとく。そっちの電池もったいねっけん、切るよ。とにかく気ぃつけるがぁよ。」
   (→愛姉(うちの長女。愛知にいる)には俺が連絡しておく。そっちの(携帯の)電池がもったいないから、切るよ。とにかく気をつけてね。)
(姉)「わかった。んじゃ、また。」

このときの会話は大体1分くらい。
とにかく、外部の連絡が取れたのことで、少し安心できた。
余震も心配だったので、すぐに学校へ戻った。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 21, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後の夜 その3~

その5 不安な夜

みんな集まってきた。
このころにになると、区長や班長たちを中心に機能し始めた。
何が必要になのか、何をすべきなのかを話し合った。

だんだん寒くなるにつれ、車の中ではきつくなってきた。
さすがに全員を車の中に入れる事はできない。
小学校の中で過ごそうという意見があったが、体育館にも若干のヒビが入っていた。
大工の人にいろいろ聞いてみたが、大丈夫かどうかはやはり判断する事が難しい。
しかしながら、度重なる余震にも耐えた事、余震自体が小さくなってきていることなどから、体育館に入る事を決めた。(余談だが、これを決める際、なにがあっても誰も責める事はしないという事をみんなで話し合ったそうだ。)

また、ちょうど夕食前だったこともあり、なにも食べていないという人達も多かった。
そこで、近所の人達が数人づつ集まり、布団と食料をとりにいく事となった。
お年寄りだけの家には、若い人達が代わりにとりに行った。
炊き出しを行えるよう、民宿などをやっているところからは、大きな釜などを持ってきてもらった。
それに必要なプロパンガスと減圧弁なども取り外して持ちだした。
お年寄りだけの家の場合は、どこに何があるのかを教えてもらって取りにいくようにした。

だいぶ時間がたってから、役場にいっていた何人かが戻ってきた。
そこでようやく、少しづつだが情報を得られるようになった。
他の部落にいた人や、村外から徒歩で帰ってきた人達からの情報だ。
部落外に通じる道路のほとんどが寸断されている事や、火事が発生しているところがあること、そして他の部落ではもっとひどいところがあるらしいなど・・・。
この時点では、自分たちの置かれている状況が尋常でないことくらいしかわからなかった。

その日は集めてきた材料で、おかゆのようなものを作った。
それをみんなに配った後、体育館の中で休むようにした。
ござを敷き、持ち寄ってきた布団を使い、まとまるようにして眠った。
また、何人かは外で焚き火をし、ラジオに聞き入っていた。
絶え間なく情報が伝わってくるものの、自分たちの置かれている状況は依然として把握できない。

「これから、どうなるんだろっか・・・。」

こうして不安な夜が過ぎていった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 20, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後の夜 その2~

その4 集合

家族それぞれの無事を確認した後、兄たちは早速行動を開始。
二人とも、もともと地元の消防団員。
とにかく、できる事からやっていった。
まず近所で取り残されている人がいないかどうか確認しながら、ブレーカーを落とし、ガスの元栓を締めていった。

幸いな事に、夕食時だったのにも関わらず、虫亀地区では火事は起きなかった。
この地域はみんなプロパンガス。
倒れているものもあったが、大事には至らなかったようだ。
最近のコンロは地震などのときに自動的に消化するようにできている。
それがうまく動作したのもあったが、やはり台所にいた人達はとっさに火を消したと聞いた。
また、一発目の揺れでいっせいに停電したおかげか、漏電事故もなかったようだ。
さまざまな要因はあるかもしれないが、ほんとうに幸運だったとしかいいようがない。

兄たちがいろいろと動いている間、親父、お袋、山姉、子供たちは車の中で過ごした。
だんだんと冷え込んでくる中、車の中でラジオを聴いて過ごしていた。
ラジオから被害の様子が伝わってくるが、山古志の情報はない。

地震発生から約2時間が経過。
小学校に集まれ、という指示があった。
そこに集まっている人達は車で、部落の中央にある小学校へ集まった。
区長を中心に消防団員の人達や各班の班長(虫亀地区は4部に分かれており、その中で班長がいる)が中心になって近所の人達の安否をいろんな人達から集めた。
取り残されている人はいないか、村外に出ている人達はいないかなど聞いて回ったところ、どうやら部落にいる人達は全員無事らしかった。

ただ、火傷を負った人、指を切断した人など数名の負傷者がいた。
それらの人の治療は、村のお医者さん(いしゃどん)である佐藤ドクターが行ってくれた。
お医者さんが虫亀の人だったのも幸運だったのかもしれない。
そのおかげで、初期治療ができた。

長島村長は地震発生時、虫亀にある実家にいたそうだ。
さすがに大きな余震が続いている中では、身動きが取れずにいたとのこと。
余震が少し収まり、みんなが学校に集まってきたころで、いろいろと相談していたそうだ。
そして、みんなが小学校に集まり始めたころ、
「俺は役場に行く。」
といって、虫亀にいる3人の役場職員とともに、村役場へ歩いて向かっていった。

・・・つづく

| | コメント (1) | トラックバック (0)

8月 19, 2005

中越大地震を振り返って ~地震後の夜 その1~

その3 余震 

実家にて。

なんとか揺れが収まった時点で少し落ちを取り戻したものの、まだ、身動きがとれない。
すごかったねぇと話をしているところで、第2波の揺れがきた。
さすがにこれ以上家の中にいるのは危険だと思った。
とにかく夢中で外に出た。みんな、はだしのまま。
最初は外に出て家から離れる。
いつ崩れるかわからない状態だった。
余震が続く中、山姉が靴を取ってきてくれた。
下駄箱も倒れていたので、出ているものしかとってくる事はできなかった。

地震直後は薄暗い程度だったが、すぐに日は落ちた。
天気がよかったのと月が少し出ていたおかげで周りは見えたが、街頭一つ点いていない。
あちこちから、人の声は聞こえている。
みんなあわてているようだ。

とりあえず、車の中にみんなで入った。
日が落ちて急に寒くなったのと、情報がほしくてカーナビのTVを付けてみた。
地震の事は言っているが、長岡駅近くの情報しか得られない。
ラジオにしてみても、まだ余震が続いているとしか報道されていない。
山古志はいったいどのような状態に置かれているかはまったくわからなかった。

また、山兄たちに連絡しようとしてみたものの、携帯がまったく通じない。
車を庭先の何もないところに移動して、とにかく連絡が来る事を待った。
不安が募る中、TVを食い入るようにみることしかできなかった。

しばらくして、家の上のほう(注:虫亀は斜面のところに家がたっているので、こういう言い方をします。)で、声がしているようなので、車を移動してみる事にした。
少し広くなっているところで、近所の人達が集まっていた。
みんなの無事を確認したり、さっきの揺れについて話し合たり。
ちょうどそのころに山兄T、山兄Sが到着。大工のYは急いで家のほうへ向かった。
ようやく、家族全員がそろった。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 18, 2005

中越大地震を振り返って ~地震発生 その2~

その2 地震発生(仕事帰りの兄たちの様子)

これは以前載せましたが、まとめという意味で再掲載します。
加筆、修正はしていますが、書いている事自体は決して大げさではありません。
マイフォトにあるパノラマ写真で、説明している場所が少しだけわかります。
ちなみに、山兄Tはうちの長男。山兄Sは次男です。(たけぱんだは三男です。)

< 山兄S、山兄Tの証言 >
その日は、虫亀の自宅から車で10分位の小千谷市南荷頃の住宅新築中の現場で仕事をおこなっていた。
現場には山兄T、S、そして同じ虫亀で大工をしている後輩のYがその場にいた。
夕方になり、さて帰ろうかとみんなで話をしていたとき、ドンッっという音がした。

< 山兄Sの証言 >
一瞬、身体が宙に浮くのがわかるほどの縦揺れが襲ってきた。
とても立っていられなかった。

< 山兄Tの証言 >
山兄Tはちょうど脚立から降り、片付けようとしたときだった。
ドンッという音。
足元がいきなりなくなったような、ジェットコースターで落ちたような感覚だった。

強い縦揺れがあった後、激しい横揺れが30秒位つづき、いったんおさまった。
あわてて外に出るとまたすぐに強めの揺れが来た。
現場裏の道路上にある池が崩壊したらしく、足元に大量の泥水が流れてきている。
ただ事ではないと思い、すぐに車に乗り込み自宅に向かう。
現場から虫亀へは3km程度。普段であれば、車で7~8分程度の距離でしかない。
各自車に乗り込み、3台で虫亀へ向かうことにした。

しかし、すでに道路は大きく波打ち、亀裂が無数に走りはじめている。
車を走らせている最中にも揺れは続く。
車の移動速度と同じくらいでアスファルトが波打っている。

落石も多数発生。直径15cm位の石がごろごろと転がってくるのが見える。
落ちてくる落石を避け、ときには避けきれず弾きとばしながらも車を進める。
それこそ映画のカーアクションさながらの環境下。
車のダメージも気になるが、それを気にして進めるような状況ではなかった。
(補足)
それほど大きなダメージはなかったものの、フロントの下は結構へこんでました。

途中の交差点で正面方向から大量の泥水が道路いっぱいに流れて来ていることに気づく。
南荷頃から虫亀方向に向かうところで左折、さらに車を進める。
川沿いの道にある集落では避難を始めた住民の姿が見える。
しかし、自分の家族が心配なため、それを気にとめている余裕は全くなかった。

道の状態は最悪だが、なりふりかまわずに車を走らせる。
しかし、目の前の道が途切れていたため急停車。
降りてみると、1mほどの段差ができている。
山兄Sはそこを飛び越えようと言ったが、山兄Tがそれを制止した。
これ以上、車では走行不可と判断し、徒歩で行く事にした。
(補足)
マイフォトにあるパノラマ写真の右下の山古志村役場のちょうど下側に見える道です。
この道を右側の方からあがってきて、写真にある左カーブのところに段差がありました。
このカーブのところで車を乗り捨ててきたそうです。
虫亀地区は、パノラマ左側の家がちょっとだめ見える林の向こうになります。

この道は集落をつなぐ道路だが、街灯などは一切ない。
真っ暗ではないが、すでに陽は落ちているため、見通しは悪い。
仕事用に持っていた懐中電灯を手にさらに進む。
気持ちはあせるが、走って帰ろうとはしなかった。
家がどのようになっているか分からないため、体力を温存するためだ。

自宅まで約1.5km。
家族の事が気になり急ぐが、更にここでも強い余震が発生。
同時に山中、もしくは桂谷方面から「バキバキッ!ゴォー」と不気味な音と地響きが、耳に、そして足にはっきり伝わる。これは地震の揺れとは全く別のものだった。
「どこか、崩れたな・・・。」
見えていなくても、はっきり分かった。
(補足)
聞いたところによると、パノラマ写真中央の羽黒トンネルの上の山が崩れたのは2発目、もしくは3発目の揺れだったそうです。
このとき聞こえた音は、多分そのときの音だと思われます。

更に余震が続く中をなんとか歩いていた皆の足が、一瞬停まる。
道の上のほうにある木が大きく揺れ、倒れてきそうな状況だ。
しかし揺れがひどいため、その場に立ちすくむしかない。
周りの木が倒れてこないことをひたすら祈る。
(補足)
この道の途中、傾いている木が何本もあります。
パノラマ写真ではちょうど林の影になってわかりませんが、その道の脇もだいぶ崩れています。

揺れが少し収まった。あわててその場を離れる。
家まではもう少しだ。
家族の安否が気がかりだ。とにかく、気持ちが焦る。
歩くといってもかなりの早足だった。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 16, 2005

中越大地震を振り返って ~地震発生 その1~

2004年10月23日 午後6時ころ。
新潟県中越地方に震度6強の地震が発生しました。
道路は寸断され、電話などの連絡も麻痺し、陸の孤島となった箇所がいくつもありました。

その隔離されたそのとき、どんな様子だったのか。
実際に被災したときの様子を、山古志村虫亀に住んでいた私の家族に聞いてみました。
半年以上経過した今になって、ようやく落ち着いて話せるみたいです。
このときの事を忘れないために、まとめておこうと思います。

その1 地震発生(実家での様子)

晩御飯の準備のためお袋と山姉(兄貴の嫁さん)は晩御飯の支度をしていた。
甥っ子たちは座敷でTVを見ていた。
親父はちょうど仕事から帰ってきて玄関に入ったばかりだった。
普段と何も変わらない時間を過ごしていたそのとき、地震は起きた。

「ドドドドッ、ドンッ!」
「グラグラグラグラッ・・・」
(甥っ子のイメージだとこんな感じだそうだ。)

最初のドンっという縦揺れで、まず電気が落ちた。
あまりにも突然の出来事で、どれくらい揺れていたかは覚えていない。
ただただ、長く揺れている感じがしていた。

< 親父の証言 >
竹沢地区での仕事から帰ってきて、玄関のドアを開けたところで地震があった。
下から突き上げられたあと、大きく横にふられた。
実際にはそれほどでもなかったかもしれないが、そのときは3尺ほど揺さぶられていたような気がした。
(後でみてわかったが、しがみついていた柱は組まれていた10cmほどずれていた。)
あと数分仕事を終えるのが遅かったら、家に帰る事もできなかったかもしれない。
とにかく、みんなに「外にでろ!」と声をかけていた。

< お袋の証言 >
台所で晩御飯の支度をしていた。
その日、ちょうどIHクッキングヒーターを入れたばかり。
さて、そろそろ温めようかね・・・とスイッチを入れたところで、ドンッと突き上げられた。
とにかく、あわてて飯台の下に入って揺れが収まるのを待った。
冷蔵庫が飯台に倒れてきたりして、とにかく怖かったが、山姉から
「だいじょうぶだかー?」
と声がしていたのはわかった。

< 山姉の証言 >
晩御飯の支度も一区切りつき、ちょうど座っていたときに、下から突然突き上げられた。
とにかく子供たちが心配だったので、とにかく声をかけた。
「だいじょうぶかー?」
「だいじょうぶー。机の下にいるよー。」(弟)
「だいじょうぶだよー。」(兄)
また、台所のほうで冷蔵庫が倒れたのがわかったので、ばあちゃんが心配だった。
「ばあちゃん、だいじょうぶかー?」
声をかけてみて、みんなから返事があった。
みんなの声が聞こえたので少しは安心したものの、いきなり電気が切れたので不安だった。

< 甥っ子(兄)の証言 >
座敷で、弟とTVを見ていた。
うちにあるマッサージチェアに座っていたとき、ゴゴゴゴ・・・と音がしたと思った次の瞬間、ドンッと言う音と共に、大きく揺れた。
最初は近くにカミナリが落ちたかと思ったけど、その後グアグアと揺れた。
そのとき、壁際にあった本棚が倒れてきたけど、椅子の上の方で止まってくれたおかげで、あたらなかった。
本がばらばらと落ちてきて痛かったけど、弟が心配だったので、
「だいじょうぶかー?」
と声をかけたら、
「机のしたにいるっけんだいじょうぶー。」
と返事が返ってきた。
体丸めていたけど、ほんとうにおっかなかった。

・・・つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 15, 2005

緊急告知っ!

あいもかわらずすっげー雨・・・。
村に入れない・・・。
ほんとは今日は聞いた話とかをいろいろまとめるつもりだったんですが、ちょいと緊急告知!

今年もやりますっ!
クリスマス・イベントォッ!!

ってまだ、夏なのに・・・。(^^;

えっとですね、じつはと山古志商工会青年部からお話がありまして、復興に関するイベントについて援助が出るようです。
ちょっとやり方を変えなきゃいけない部分もあるみたいですが、

・ 集会場に集まるようなイベントを一発。(こっちはサブ)
・ ケーキを一軒づつ配布。(こっちがメイン)

という基本路線は変わりません。(いまのところ)

昨年はボランティアの方々のご協力と多数の方の募金でイベントを行うことができました。
今年は現地スタッフの協力が得られそうというのと、さらに予算がつきます。

ボラの方々には本当にいろいろと苦労していただきましたが、今年は少しは負担を軽くできそうです。
ただですね。
やっぱり現状では人員が足りないとの事。
そこで、またまたお願いです。(ああ、お願いばかりですいません・・・)

これをみている明徳ボランティアのみなさま、そして山古志関連のボランティアを行ってくださった皆様。

今年もサンタやりませんか?

まずは、企画を通すためにも参加人数がある程度確保できる見通しがないとまずいようなので、参加できる方は連絡いただけますか?
打ち合わせの日程などもあるので、来週の月曜日くらいまでに返事をいただけるとありがたいです。

ボランティアの同窓会っていうのも考えているので、参加していただける方、連絡してくださーい。(^^

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月 14, 2005

お墓参り

昨日、大雨の中バイクで実家に帰りました。
カッパなんぞ役に立たない程の雨の中、後悔しながら。(;;
80km/hで走ると雨って痛いんですね・・・。

昨日と今朝は長岡で大雨警報が出ており、バケツをひっくり返したような雨が降っていました。
そのせいで当初入村出来なかったのですが、午後から一部が解除されたのでお墓参りにいってきました。
いつもであれば、夜になってちょうちんに明かりをつけて・・・。
親戚の所などを回ってくるのがいつもの夏の風物詩でした。
今年はさすがに夜に入る事もできないので、明るいうちに行ってきました。
いつもであれば、ろうそくがいっぱい灯っている中、お線香の香りが充満した中お参りしていたいたのが、今年は誰もまだお参りしていないような状態でした。
地震で倒れた墓石も元通りにされていました。
ほとんどは修復されていましたが、倒壊時にかけたりしているものもあります。
ただ、すでに移動してしまったところもあり、多少寂しい気もしましたが・・・。

村の道路もこの雨で更に崩れている箇所もあり、道路に泥などがだいぶ流れていました。
地肌が露出していた部分はかなり削りとられていたようです。
羽黒トンネルの上もこの前来たときよりも、崩れていたように見えます。
(やまの上の方にはビニールシートがかぶっていました。)

本来なら村の写真をいろいろと撮ってくるつもりでしたが、ここ数日は無理そうです。
数日はこちらにいるので、機会を見つけていってみるつもりです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

8月 05, 2005

写真アップしました

この前、実家に行った時の写真をアップしました。

今回はいままでいけなかった金倉山の方へ行った際の写真です。
山のほうはまだまるっきり手付かずの状態です。
ただし、水道などのライフラインが関係する箇所は進んでいますが。

また帰るときは、もうちょっと詳しく見てきたいと思っています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

8月 01, 2005

現地入り

雪解け後、初めて村に入りました。
非難指示が解除されたとはいえ、まだライフラインもまともに整っていません。
現時点での状況としては、

・許可証なければ入れないのは変わらず。それはしばらく続く。
・事前に登録しておけば、村で泊まることも可能。
・電気は希望箇所については、春先に開通済み。
・ガスはプロパンのため、特に問題なし。
・水道は8月末ころになんとかなるかなぁ・・・という状態。
・電話は一部地域で8月中旬に開通する予定。
・携帯電話はつながるが、つながりにくいところあり。
・部落間をつなげる道は、まだ工事中。

と、いう感じです。
それでも、畑で作物を作っているところもあれば、家の改修作業をはじめているところもあります。
一部では泊まる人もいるようですが、その人たちに聞くと、
「やっぱり人がいないのは変な感じがする。夕方から夜になると怖い」
といってました。
ただ、これは被害の比較的少ない部落だからこそ、できることなのですが・・・。
被害の大きかった地域はほんとに大変だと思います。

今回は、震災後はじめて金倉山の方へも行ってみました。
車で行ったのですが、やはり途中で亀裂や段差によって行けなくなりました。
まだなにも手がつけられていないので、地震のときの状態のままです。
やはり、すさまじいですね。
自然の力っていうのがどれほどのものか、目の当たりにした感じです。
できれば、今度はバイクか徒歩でもっといろいろなところの様子を写真に収めてくるつもりです。

埼玉にもどったら、写真をアップします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

7月 04, 2005

豪雨

なんか異常ですね。
この天気。
冬のときもそうだけど、なんかおかしくなってんのかな?

村の中はただでさえ地盤が緩んでいるというのに・・・・。
やはり、出入り禁止にもなっているようだし、崩れているところも多いみたい。

もうこれ以上降らんでください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月 28, 2005

またもや会話中

ただいま、山兄Sと会話中。
向こうでの最新情報をお伝えします。

この中で、避難支持解除の通知がされるといろいろと告知されていたようですが、実際のところは制限が解除されたわけではありません。

また、避難支持解除もまだ具体的な日にちが決まったわけではありません。

降水量80mm以上となると、全面禁止。
許可証も必要ですし、時間制限もかかっています。
村外からちょっと行って見たいといっていけるわけではありません。
出入りは自由になっているわけではありませんのでご注意を!

村の人たちは毎日帰っている人もいますが、基本的には許可証がなければ入れません。
興味範囲で入村しようというのはご遠慮ください。

国の生活支援金もただポンともらえるわけではなく、具体的な使い道も定められています。
「こういうの用途で使いました」と証明する領収書を出して、きちんとした手続きをふまなければもらえません。
最初に払う分はもちろん立て替えです。

一部では「山古志は有名になっていっぱいもらったでしょ?」という憶測と噂があるようですがそんなことはありません。
義援金については、長岡も小千谷も川口も同額です。

老人だけの世帯では、「もう家には戻れないなぁ・・・」といって施設に入ろうとしている人も少なくありません。施設のほうも大変らしく、20~30件待ちはざらだそうです。
現実はやはりきびしいです。
自分のほうで、なにか協力できることがあれば、積極的にやっていこうと思ってます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月 25, 2005

中越地震でボランティアに来てくれた皆様へ

中越地震でボランティアに来ていただいていたみなさま。
あの時は非常にお世話になりました。
そこで生まれ育った者として、感謝しております。
なにかみなさまにお礼をしたいと思っているのですが、なにせ若輩者一人の力ではなんとも・・・

と、思っていたら。

長岡市のボランティアセンターが、素敵な告知をしてくれました。
なんと、ボランティアをしていただいた方々を8月2日、3日に行なわれる「長岡まつり」大花火大会ご招待!
(でも、この日って平日なんだよねぇ・・・)

参加資格は長岡のボランティアセンターを通して活動していただいたボランティアの方であればOK。詳細についてはこちらを見てください。
ただ、締め切りが6月30日となっています。応募を考えている方はお早めにどうぞ。

また、今回は復興を祈願し、かつてない規模での打ち上げ花火「フェニックスを最後に行なうそうです。
なんか、ギネスに載せるだのなんだの、いろいろと話題のある花火。
参加できる方は、この機会に是非おいでください。

聞いたところによると、実は新潟っていうのは花火の産地。
他の地域よりも、規模もでかいみたいです。
隅田川とかの花火もでかいといいますけど、どっちもみたおいらの感想としては長岡も負けちゃあいません。
花火メインのお祭りだったら片貝祭りにかなうものはないと思ってます。あそこもひどい被害にあったはずだけど、今年はどうなるんだろ?

とりあえずは、開催の決まった長岡花火。
この機会に、でっかい夏の風物詩を見に来てみませんか?

今年はおいらも行くつもりです。
会社サボって。(笑)

| | コメント (7) | トラックバック (2)

6月 17, 2005

会話

いま、山兄Sと音声チャット中。

久しぶりに向こうの様子を聞いています。
以下は、村内の747棟調査した結果です。

全壊 328棟。
大規模半壊 59棟。
半壊 237棟。
一部損壊 123棟。

6月25日以降に宅地調査が入る予定。(地盤調査)

現在も長期避難指示中。
やすやすと村に入れる状態ではないそうです。
村の人たちは許可証持っているので、事前に登録して入っているみたいですが。

向こうに戻るにしても水道や道路などのライフラインは今年中には無理のようです。
子供のいる世帯は、学校などの問題もあるので非常に頭が痛い・・・。
うちの兄貴のとこもどうするか悩んでるみたいです。

子供たちもイベントなどがてんこ盛りだそうで、休んでいる暇がないといってます。
もちろんうれしいみたいですが、疲れがたまってきているように見えると兄貴は言っています。

本当の問題はこれから。
なにか手伝えることがあったら、おいらも積極的に動いていくつもりです。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

5月 04, 2005

実家に帰ってきた

4月30日の夜から5月3日まで、実家に帰ってきました。
帰れないと思ってたんだけど、仕事の方で進めない部分がでてきたので、とりあえず帰ることにしました。

今回は特に何かするつもりはなかったんですが、とりあえずは甥っ子たちとじさま、ばさまを引き連れて水族館にいってきました。じさまとばさまは喜んでいたようだが、甥っ子どもはさすがに何回か着ているせいか、あきるのも早かったみたい。(笑)
まぁ、それ以外はのへーっとマンガ本読んでたり、お茶なんぞすすってたりとぼへーっとしてました。
うれしかったことといえば、兄貴が実家から取ってきた、わさびな(わさびの新芽のとこ。からいがうまい!)が食べれたこと。あぁ、春だなぁとか思いました。
ほかの山菜はまだ取れないようです。つか雪とけてねーし。(^^;

本当は村に入りたかったんだけど、うちの兄貴たちが仕事っていうのとちょっとタイミングが悪かったせいか、入ることはできませんでした。
とりあえず、許可証を持って連絡しておけば以前よりは楽に入村できるようになったとのこと。でも、時間は区切られているし、一応連絡も入れとかなきゃいけない。
基本的には村の人と工事などの仕事でないと入れないとのことなので、行ってみようとか思った人はあきらめてください。
(入り口にはゲートもあるし、チェックもしてます。この休み中に追い返された人もかなりいるって聞いてます。)

村の様子はというと、ようやく雪で隠れていたものが見えてきたような段階。
とはいっても、いつものように除雪ができなかったのと、大雪のせいでまだまだ雪が残っているそうです。
この分じゃ、田んぼも畑もいつになったら始められることやら・・・。

また、5月の半ばから、いよいよ家の査定が入るそうです。
やっとこさ査定が入るわけだけど、いったいどう評価されることやら。
うちの実家、築100年以上経ってるんですよ。
昔の役場(だったと聞いた)のを改築したんだそうだが、これがまた意外と丈夫。
地盤もうちのとこは割りとしっかりしているらしく、ぱっと見はすこーし傾いでるくらい。ものはいろいろ倒れていたりするけれど、壁が落ちた箇所も少ないし。
でも、柱がずれてたりしてるとこもあるから、素人では判断できませんけどね。
家の価値としては、年数から言えばもう値段がつかないんじゃないかな?別の意味で貴重かも知れんけど。(^^;
でも、実際問題として、半壊扱いだったとしても怖くて住めるモンじゃない。
とはいえ、立て直すにはお金がかかる。壊すにしても直すにもしても。

こんなふうに冬で先送りになっていた問題がいろいろと浮上してきているようです。

お年寄りだけの世帯も、これから家を建てて住むっていうのもつらいでしょう。
それに子供がいる世帯も、学校のこととかを考えると悩むという話もききました。
すでに長岡の方に土地を買った人もいるとのこと。

山古志に帰りたい。
でも、生活していくためには離れるという決断をするしかない人もたくさん出てくると思います。
自分としては村はやっぱりあってほしい。
でも、そこで生活していた人たちしか決めることはできないはず。
これから本格的な復興をしていくわけですが、ほんとにいろいろと決断しなきゃならないことが出てくることでしょう。
もちろん、うちの実家でもね。

ほんと、問題は山済みです。
県外に出ちゃってる自分が言うのはおこがましいかもしれないけど。
くよくよするんじゃなくて前向きに考えていきたいですね。
こんなときだからこそ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3月 31, 2005

山古志村というなまえ

今日、2005年3月31日。
”山古志村”という名前は、名目上地図から消える。

明日からは”長岡市”の一部地域としての名前になる。
それは別にいいことでも、わるいことでもないと思う。

昔、”村”っていうのはあんまり好きじゃなかったと思う。
田舎くさいイメージっていうのがいやだった。
だから、”市”とか”町”とかっていうのにあこがれてた時期もあったなー。

田舎くさいって思ったのは、村の外に出ていったときに周りの連中からいろいろ言われたから。
コンビにもないの?とか、日にバスが6本しかないの?とか言われると、すごく取り残されたような感覚になって恥ずかしかった。
今でもそうなんだけど、田舎の話をするとバカにしたようなこと言う人も結構いる。
そんな不自由なの?都会のならもっと便利なのに。
みたいな。

見下された感じがして、それがなんか恥ずかしかった。
だれしも、恥ずかしい思いをするのはいやでしょ?
それが、あんまり好きじゃないなっていうのに置き換わっていたと思う。

でも、不自由なことってそんなに恥ずかしいことかいな?
大変かもしれないけど、それ自体はいいことでもわるい事でもない。
悪いことなら恥ずべきことだけど、そうでなければ気にすることでもない。
そんなふうに考えるようになってからは、たいして気にならなくなったな。
むしろ、不自由な出来事のことで話が盛り上がることもあるし。
今じゃ、逆にネタになるからかえっていいことのほうが多いかも。(^^

バカにされていやな思いもしたけれど、そこに住んでいること自体は好きだった。
ガキの頃は、山菜とかアケビとかクリとか、いろんなものを採りに行くこと自体が遊びだった。
畑の手伝いは嫌いだったけど、取れた野菜や米はほんとにおいしいかった。
雪も大変だけど、その分春になったときはうれしい。
つらい思いもけっこうするけど、うれしいこともその分を補うくらいたくさんある。

いいところに住んでたんだなって、ほんとに思う。


そんな思い出がいっぱいつまった場所の名前が変わる。

村にいた人が急に変わるわけでもない。
生活がいきなり便利になるわけでもない。
別にたいして変化があるわけではない。
呼び方が変わるだけ。

でもね。
やっぱ名前が変わるってのは結構さみしいもんです。
それとも違和感なのかな?
この感覚って、言い表すのがすごくむずかしいんだけど。
そーだなー。
たとえば、自分が勤めていた会社がどこかと合併して、名前がなくなったときにちかいんだろうか?
そんな目にはあってないから、そうじゃないかもしれないけど。


山古志村っ名前はなくなるけど、その場所は自分にとってはやっぱりそこしかない。
だから、このブログではこれからも山古志っていっていくつもりっす。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

3月 23, 2005

山古志村 感謝の集い

さっきの続きですが、カテゴリ変えました。

21日

今日は「山古志村 感謝の集い」の日。
近くの青葉台小学校で行うとのことだったので行ってみました。

050321_

会場につくと、入り口で長嶋村長さんが来場する人たちに声をかけていました。
本当にすごいなぁと思うとともに、この人が村長でなくなってしまうのがちょっと寂しい。
みんな村のことを思っていると思うけど、この人のように実際に行動できるのは本当にすごいと思いますね。

会場に入ると結構人が来ていました。
実際には閉村式だけど、感謝の集いと掲げてあるのはなんか前向きでいいな。

式は村長さんをはじめ、えらい人たち(田中真紀子さんもきてた)のお話からスタート。
その中で出てたことですけど。

合併によって村の名前はなくなってしまうけど、その場所がなくなるわけじゃない。
地域の文化が消えてなくなるわけではない。
もっと多くの人たちと協力できるようになるって考えれば、それっていいことだと思う。

あと、村長さんや他のひとも言っていたけど、村に戻ることが協力していただいた方々への恩返しだと自分も思います。
実際にはいろんな問題もあるんで、ほんとに難しいことだと思うけど。
住んでない自分が言うのは、無責任な発言に聞こえるかもしれないけれど。
やっぱり、できるだけたくさんの人に戻ってもらいたい。
だから、自分でできることは何か協力したいとあらためて思いました。

その後、小学4年生たちによる手掘りトンネルの劇と中学生の歌がありました。
子供たちの劇はほんとによくできていて、いろんな所で笑いがおきていました。
こういう劇って和みますね。
うちの甥っ子も出てたんですけど、まぁよくできてました。(笑)

そして、村旗降納。
前にいたおばあちゃんは、そのときちょっと涙ぐんでいました。
自分も、やっぱりさびしい気分になりましたね。やっぱり。

あと、村役場の人たちも今後も復興に何らかの形で参加していくとのことなので、がんばってほしいです。
でも、あんまり無理をしてほしくないな。
無理して他の人たちを悲しませるくらいなら、もっと周りに頼ってもいいでしょ?
それが仲間ってもんだし。

この式に参加してよかったです。
いろいろとこれからのこと、考えることできたし。
春先には、本格的な復興が始まります。
何ができるかわからないけど、また向こうにいって手伝ってきます。


あと、20日にまた大きな地震がありました。
玄界島の方々は、あのときの山古志みたいな状況なんでしょうか。
避難所の様子を見ると、そんな感じがします。
できれば自分も現地に行ってなにかしたいところですけど、ちょっと今の状況では難しいんで、何らかの寄付をしたいですね。
本当に地震災害にあわれた方々の一日も早い復興をお祈りするばかりです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2月 27, 2005

写真を見に行ってきた

昨日言ったとおり、写真を見に行ってきました。
今日はよく晴れてドライブ日和。
昼ごはんを食べてからのんびりおでかけ。

熊谷の八木崎は、かれこれ10年ぶりくらいか?
昔、うちの山兄Sは深谷で仕事をしてたので、熊谷はよく行ってたんですよ。
大学の頃、お金もなかったんで、週末に泊まりにいってはご飯を食べさせてもらって。
新婚だったのにね。悪いことしてたよなぁ。(^^;
すまんな。笑って許してくれぃ。>山兄S

で。肝心の写真の展示ですが。

八木崎の8Fにて、パネルを十数点掲示してある程度の小規模のもの。
書店ではカーゴに各写真集をまとめておいてあったり、放送で山古志のことについて放送されていました。
写真を見れば、見たことのある風景ばかり。
思わず、食い入るようにみてしまいました。

これを見に来ていると思われるお客さんも意外と多い。
それぞれ、写真を見ながら連れ立っている人たちと感想を述べ合っていました。
すでに4ヶ月以上経過しているわけですが、人々の記憶の中にははっきりと残ってるんですね。
写真集が参考用においてあり、それを見ていく人も多かったです。
買ってくれる人は少なかったですが・・・・。
でも、ちょっと値が張るのでしようがないか。
写真集見ている人の後ろで「買え~買え~」と念じてみたのですが、通じたのは2人くらいでした。(^^;

自分も「山古志村再び」を1冊買ってきました。
仮設の住民の人に配られたものと同じなんで、すでに見てはいるのですが、やっぱりこれが一番山古志の風景としてまとまってる感じがしたんで。
さっきもう一度じっくり見ましたが、見たことのある風景、知っている人の笑顔がありました。
風景は変わってしまっているところもあるけれど、人の笑顔は変わってない。
ただ、笑える機会が少なくなってしまっただけ。

やっぱ、いい顔してもらえる機会をつくりたいな。

ということで、なんか喜んでもらえる企画を新たに構想中。
(って昨日も書いたか。)
具体的にはまだ何にもいえないけど、今度はもっと現実的な応援ってことを考えています。
ちょいとややこしい部分もありそうなんで、春先に実現を目標に慎重に検討中。
近日中に公開予定っす。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

山古志の特集を見た

今日、PCに撮りためておいた番組を見た。
撮るのは楽なんですけど、ずいぶんと溜め込んでいたんで見るのに一苦労。

その中に、以前NHKスペシャルで放映されていた
「いつかまた故郷へ ~山古志村・村民たちの80日~」
があった。

まえから見よう見ようと思っていたが、自分にとって流して見れる代物じゃあない。
でも、今日は時間があったので、じっくりと見た。

番組では、村で酪農を行っていた方と、体の不自由になった夫と暮らすおばあさんをメインにまとめたもの。
(自分と違う部落ではあるが、どちらの方もなんとなくは知っている。)

酪農をやられていた方は柏崎の方で新たな生活の場を見出し、そこでの生活を始めた。
いろいろな苦悩の末、そういう道を選んだ。
おばあさんは崩れた我が家をみて悲しんだ。
でも、少しづつでもいいから村を復興するためにがんばっていこうと、村のみんなで回しているノートに書き記した。
そして、村長さんはそんないろいろな人達のことを思いながら仕事をしている。
それぞれの悩みや悲しみを持ちつつも、懸命に努力している人達の姿がとても印象的な番組だった。

この番組について語るつもりはない。
というより、なにもいえない。
でも、見てくれた人が、なにか感じてくれればいいな、と思う。
この番組はDVDに焼いとこ。
ほんというと、報道のあり方についてはいろいろと書きたいことがあるけど、それは別の機会で。


ただ、クリスマスの方が一段終わって気を抜いてしまっていたところなんで、いろんなことを考えてしまいました。
このような悩みを抱えている人たちに、どうすれば一番喜ばれる形で協力できるのか?
現在、また新たな企画を考えている所ですが、うけいれられてもらえるかどうか・・・。

と、いろいろ考えてしまいましたが。
とりあえず、明日は熊谷の『八木橋』で中條さんの写真展やってるそうなんで、見に行ってきます。
東京でやってたときは見にいけなかったんで・・・。
ちなみに2月28日までだそうです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2月 21, 2005

お福って知ってます?

ちょっと、山古志関連ってことじゃないかもしれませんけど。
(いや、関係あるか・・・な?)

お福って知ってます?
新潟のお酒なんすけど。


今日、フジテレビの”EZ!TV”でお福酒造の取材をやってた。
そこは実家から長岡駅に向かうところの途中にある酒造会社だ。
高校のころは、ちょうどそこの前を毎日通っていた。
ちなみに、山古志のお米を使ってお酒を作っていたりもします。
(以前自分も飲んだことあるし。)

TVによるとやはりだいぶ被害があったようだ。
被害から今年の冬の仕込みから最初の出荷までの道のりのドキュメントだった。
お福酒造のある横枕も被害が大きく、自分が帰ったときに実際に見たが何箇所かマンホールが浮き上がっていた所もあったし、家も崩れたりしたところがあった。
やはりお福酒造の方の被害も大きく、出荷前のお酒がだめになったり、酒蔵が倒壊しそうになったり。
そして、お酒を作る肝心な水も出なくなってしまった。

お酒を造るときには、すごくいろいろ気を使うのだそうだ。
家の知り合いで、冬の間だけ酒造りにいっていた人がいたが、ほんと大変なのだそうだ。
力仕事でもあるし、気も使う。
今回の地震で今までと勝手の違う環境下での酒造りはほんとに大変だったと思う。

けれども。

それらの苦労を乗り越えて、この間今年のお酒を出荷できたそうだ。
・・・ほんと、よかった。


ここで、ちょいと自分とお福について。
よくよく考えてみると、おいらの日本酒好きの原点がここにあったりする。

うちの親父が飲んでいた頃は、よく”お福”を買ってきて飲んでいたんです。
(今はすい臓をやってしまったため、今は一滴も飲めないけど。)
自分もガキの頃から(w)、ちょろちょろと親にねだって飲んでいたせいか、日本酒の味の基準は’お福’なような気がするなぁ。
どちらかというと、ふつーの清酒の場合、割とお米とこうじの香りの強いお酒で、「お米で作った酒や!」ってな感じがやや強い。
だから、「上善如水」のようなまさしく水のようなさらっとした感じなお酒が好きな方には、苦手かも。
ちなみにおいらは、しっかりと香りがする日本酒のほうがすき。(#^^#
(みなに言うと、それって”のんべぇ”の傾向なんだそうな。)
だから、地元に帰って自分用に買ってくるお酒といえば、久保田でも八海山でも影虎でもなく、”お福”。
上善如水や、越野寒梅も飲んでおいしいとは思うけど、なんか落ち着かない。
一升瓶で注ぎあいながら、ほんとに気の知れた仲間と飲むときにほしい感じ。
気取って飲むわけでなく、楽しく飲む。
そんなお酒なんですよ。おいらにとって。
冬の鍋とかやるときには、ほんといいよなぁ。

今度帰るときは、以前ほどあわただしくないはず。
買ってこよーっと。(^^

あっあと、「純米吟醸山古志」というお酒。
これは、売り上げの一部を義援金として寄付していただいたようです。
ほんとうにありがたいです。

お福酒造の皆さんにもがんばってほしいです。
自分も売り上げに貢献するよう、がんがん飲むようにしますんで。(^^

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2月 15, 2005

雪堀をいろんな角度から考えてみた

今年は19年ぶりの大雪。
豪雪地帯ではほんとに大変です。
きょうは、ちょいと指向を変えて、いろんな角度から「雪堀」について考えてみました。

ところで、みなさんは「雪堀(ゆきほり)」っていうのはご存知ですかね?
山古志のほうでは雪を屋根から下ろす「雪下ろし」のことを「雪堀」というんです。
それはなぜかって?
下ろすじゃなくて、掘っていくからです。
どんな量かは、2月10日の日記に写真のっけてるんでそっちをみてやってくださいまし。

おろすって感覚じゃないっすよ。ほんと。
ここ数年はたいした雪が降らず、雪堀も一冬で数回ほどでしたが、今年が異常です。
1月下旬からほぼ毎週末になると、雪堀隊を結成して現地に向かってます。
雪堀は大変な重労働と言われていますっていうかほんと大変です。
はんぱでないっすよ。ほんと。

で。
ここでちょいと疑問が。

過酷な重労働といわれていますが、はたしてそれはどれくらいの労働なんだろ?
まぁ漠然と、んなこといわれたってわかりません。
この間、”身近にある単位に合わせてみるとよく分かる”とTVで言ってたんで、やってみるとしますか。
まちがってたら、ごめんなさい。ご指摘ビシバシしてください。(^^;

ということで、ちょっと物理のお勉強。
具体的な量として求めるとすると、以下の公式に当てはまる。(ハズ)

仕事量 = 力の大きさ × 距離

ようは、”どんだけ重いものをどんくらい移動させたか”っつーことですね。
ここで、2月頭に現地入りして山兄Sの家を雪堀してきたときの仕事量というのを求めてみます。

うちの山兄Sの家の場合、建坪が大体50坪位。
こっち(関東)きてみた思ったけど、これって意外と広いのねん。
まぁ、いなかですからね。(^^

で、1坪あたり約3.3㎡。つーことで、面積は
  50坪 × 3.3㎡ = 165㎡

これってと同じ位の面積というと、ちょうどバレーボールのコートの大きさ。
  165㎡ ≒ (18m × 9m = 162㎡)

屋根の上の積雪量は約1.8m位でした。ということで、屋根の上の雪の体積は
  1.8m × 165㎡ = 297㎥

雪の重さはこちらのページに書いてあったのを参考にしてみました。
がっつしとしまっていたんで、間をとって1㎥あたり400kgとします。
そうすると、屋根の上の雪の重さは
  297 × 400 = 118800kg → 約112t

この時点で分かりやすい単位としてよくいう元おすもうさんの小錦の体重を借りに250kgとすると、
  118800kg ÷ 250kg = 475.2
つまり、兄貴の家の屋根に475人もの小錦がどっかと腰を下ろしていたようなもんなんだな。
・・・改めて計算すると、すさまぢいな。(^^;

さて、移動距離は厳密に求めようとするとわけわからなくなるので、単純にしてみます。
屋根は半分づつ掘るんですが、手前の方と奥の方では移動距離が異なります。
ということで移動距離はすっげー大雑把ですが屋根の長さの半分とします。
大体片面3mくらいだと思うんで、1.5mとしましょうか。

そうすると仕事量は
  118800kg × 1.5m = 178200kgm

ちなみにこのときは、4人で作業しました。(この日は2件分)
つーことは、一人頭の1時間あたりの仕事量は
  178200kgm ÷ 4人 = 44550kgm

あと、半日(実質3時間程度)かけてやってたわけですから、1時間あたりの仕事量は
  44550kg ÷ 3h = 14850kgm/h

うーん。わかりづらい。(笑)
もうちょい、現実的な数値に落としてみるとしますか。
30kgのお米って結構重いと思うんでけど、それを仮に10mんだ場合で考えてみましょうか。
(他になんかいい例えがあれば、コメントください。)

  14850 ÷ 30 ÷ 10m = 49.5 ≒ 50回

ちなみに、作業自体は同じ位の大きさの家2件で大体5時間くらいだったので、

”一日で30kgのお米を10m運ぶのを250回やった。”

ってな具合でしょうかね。
ほんとは”プールで何メートル泳ぐ”とかに変換できれば分かりやすいと思うんですけどね・・・。
でもまぁ、これって結構大変だと思いません?

ちなみに運動としても結構大変だと思います。
久しぶりにやると、全身筋肉痛になりますね。
普段使ってない筋肉使うわけですし。
運動として考えると、以下のような要素があるんではないかと。

・重いものを運ぶ。これだけでも単純にいい運動。
・傾いた屋根の斜面での滑りやすい状況下であるため、バランス感覚も重要。
・スノーダンプの場合、それを振り回すので回転運動も行う。
・息が切れる。たぶん、有酸素運動。

ん?
これって、ダイエットにいいんではないか?
ダイエットに必要な、基本的な運動を押さえているんでは??

ひょっとしてもしかしたら、すごく体にいいのではないんでしょうか?
そうだ!
きっとそうだ!!
つらいだけじゃないんだ!
そうさ。
いいこともあるんだ。アルンダヨ。ゼッタイ!!!

・・・今度やるときは、そう思うようにします。


あと、気持ち的な面から考えてみると。

精神的にも単純作業なため、結構きます。
寒い環境下で、ものすごーく風が吹いていたりすると、くじけそうになります。
んでもって下ろしている最中に、雪なんかが降ってきてさらに積もってきているのをみると、虚しさを感じることもあります。

でもね。

やりたくなかろーが、つらかろーがね。
理不尽だろーが、むなしくなろーが。
やんなきゃ、家つぶれちまうんです。
やんなきゃ、だめなんです。

ボランティアの人達が、「こっちの人達って我慢強いよねー。」っていってました。
なーんとなくですが、こういった環境下で育ってきたからかも知れんなぁと思ったりもしました。
でも、まぁ、地元からするとこれが当然のことなんで、実はあんまり苦に思っていなかったりするんですけどね。(^^;

そんなところで一考。

子供とかに経験学習として、やらせてみたらどうっすかね?
小さい頃にこういったつらくて泣きたくなるようなことを経験させとくと、いろんな意味で強くなると思うんですけど。

でも、危ない作業なんで安易に作業させるわけにもいかないので、結構むずかしいとこもあるな。きっと。
けど、地元も助かるし、子供たち(大人でも)いい経験にもなるし。
スキーとかだけじゃなく、別な方向で冬にも人が呼べるようにしてみたら、いろんな意味でプラスになるとも思うんですけど、どーっすかね?
もちろん、村が復興した後の話になるんですけどね。


と、まぁこのまえ雪堀に言ったときに考えていたことをつらつらと書き連ねてみました。
あー、まとまってねー。(^^;

なんか、雪堀って楽しいぜ!とかってアイデアないっすかね?

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2月 13, 2005

そんなわけで

先月から思っていたことなんですが。

地震が起きてもうすぐ4ヶ月。
雪は大変なものの、地元のほうも落ち着いてきています。

いままで、地震関連の情報は「新潟中越地震」カテゴリに載せていました。
原因は地震であるものの、なんかずーっとそれを引きずって書いてきたような気がします。

ほんとは3ヶ月目で一区切り付けて、別のカテゴリにしようと思ってたんですが、クリスマス関連のこともあってそっちのほうにのせてました。
すでに現地では、「これからどうするか?」という方向に進んでいこうとしているわけですから、自分のほうもそれに合わせようと思います。

つーことで。

今後、山古志関連の記事については、「そんでもって山古志」というカテゴリを作成したんで、そっちのほうに書き込みします。
現地の様子や、復興に向けての取り組みなどがあれば、今後はこっちに書きます。
まぁ地震の時の記録などもいろいろ聞いて書くつもりですけど、それも今後はこっちということで。

それと、自分の生活ももとに戻りつつあるんで、開設当初のように趣味やらなんやらについて、わらわらと書き込んでいくつもりです。


あ、あとですね。
1月、2月にコメントやトラックバックいただいた方々、まともにお返事しなくてすいませんでした。
これからは時間的にもちょっと余裕できたんで、きちんとお返事するようにします。

そんなわけで、今後もよろしくお願いしまっす。(^^

| | コメント (2) | トラックバック (1)